岡本は仕事の早い人間で、しかも泰生がまだ管弦楽団の4回生に直接連絡を取りたくないという匂わせを汲んでくれたのか、朝一番に三村からのメッセージを転送してきた。
『おはよう♡三村さんが』
『「長谷川くんに、もし今日テスト終わって時間あるなら、5時過ぎに学館に来てって伝えてくれる?」』
『だって。可か否か、俺に返事おくれ』
おいおい、と泰生はひとりごちた。どこの松脂を使っているのか訊きたいだけなのに、何故学生会館に行かなくてはいけないのか。
『どこのヤニ使ってるか知りたいだけなんですけど』
『もしかしたら、
『それに俺がつき合わないといけませんかね』
『斉藤ちゃんも来るかもしれんから面通ししとけば?』
話にならない。泰生はいつもより少しだけ空いている電車に揺られつつ、とりあえず行くと返事した。送信してから、ちょっと後悔した。
梅雨が明けたばかりの猛暑は、17時を過ぎても微塵も弛まない。文学部棟から学生会館まで来ただけなのに汗ばみながら、泰生は音楽練習場を目指した。
1枚目の扉は開け放されていて、手書きのメモが目の高さに貼ってあった。
「長谷川様 奥へどうぞ 三村」
嫌な予感を振り払って、泰生はスニーカーを脱ぎ、奥の重い防音扉を開けた。果たしてそこには、三村と、クラリネットの戸山と同じくらい小柄な女性が、コントラバスを並べて音を出していた。
あれが斉藤ちゃんかなと思いながらそっと中に入ると、2人が弾くのを止めて同時にこちらを見た。三村が破顔し、おはよう、と声をかけてきた。
「わざわざ悪いなぁ、ついでやしちょっと弾く?」
「あー……」
泰生は弾きません、と言えない自分に腹が立った。1回生の女の子は、泰生を興味津々の目で見ている。
仕方なく泰生は、楽器庫からコントラバスを運び、2人の注目を浴びながらカバーから出した。三村が、ああ、と思い出したように、金色と黒の筒状の小さなケースを持ってくる。
「俺のヤニ使ってみる?」
泰生は密かに目を見張る。昨日行った楽器店で、一番高かった松脂である。
「長谷川くんはどこの使ってるん?」
「これです」
泰生が松脂を出すと、男たちのやり取りを黙って見ていた斉藤が、一緒です、と言った。2回生の小林が、確か彼女は初心者だと言っていたので、やはりこれを勧められたのだろう。
せっかくなので、三村の好意を受けることにした。泰生は弓に松脂を滑らせて、4本の弦を順に鳴らした。深みのあるいい音がする。
「あっ、何か手応えが違いますね」
思わず言ったが、三村も斉藤もやや不思議そうに泰生を見ている。おかしなことを言ったかとひやりとしたが、斉藤が口を開いた。
「上品な音なんですね、長谷川さん」
「……へ?」
三村が微苦笑しながら続く。
「遠慮して鳴らしたん違うよな? その楽器、もっとデカい音出るはずなんやけど」
三村は斉藤に目配せした。すると斉藤はすいと弓を構えて、アルペジオを弾き始めた。
泰生は驚き、失語してしまった。斉藤が弾く楽器は、おそらく彼女の身長に合わせたもので、三村や泰生のそれより少し小ぶりだ。弓を持つ斉藤の腕も華奢なのに、彼女の音は練習場全体に響き渡り、天井に反響した。
嘘やろ。泰生はぽかんとするばかりだった。泰生はこれまで吹奏楽部で3人の男性コントラバシニストと演奏したが、誰一人としてこんな音は出せなかった。
「斉藤ちゃんはヴァイオリンやってたんもあるんやけど、これくらいの音欲しいなぁ」
こんなん初心者ちゃうやろ。泰生は三村の話を聞き、この場に居ない小林に突っ込みたくなった。
斉藤は弓を止め、にかっと笑う。
「吹奏楽のコントラバスやからですよね? チューバとかに掻き消されるし、ソロもあらへんし」
初対面の3回生相手にはっきり言うなと、泰生はそれにもややあ然とさせられるが、斉藤の言う通りだった。
吹奏楽部では、コントラバスにはトレーナーがつかない。先輩から教えてもらうことが全てだ。たとえそれに不具合があったとしても、正してもらうチャンスが無い。
三村は泰生が軽くショックを受けたのを見て、励ましモードになった。
「心配すんな、意識改革したらええことや……百花姫もちっさい音やったからなぁ」
戸山の名前が出たので、泰生は三村の顔を見た。三村は説明する。
「クラリネットは吹奏楽でヴァイオリンの立ち位置やから人数多いやろ? でも管弦楽やったら常にソロ楽器や……そんな音では使いもんにならんって、木管トレーナーにがつんと言われてな」
そうか、と思う。戸山も泰生も、吹奏楽部から管弦楽団に変われば、もっと活躍できると思っていたのが、吹奏楽で染みついた「その他大勢根性」に気づかされたということなのだ。
泰生は小さく溜め息をつき、今日はこれで帰ろうと思ったのだが、三村が止めた。
「長谷川くん、斉藤ちゃんに本気で弾かせたから、これから雨になるで」
ただでさえカルチャーショックのようなものを受けたところに、訳のわからないことを言われて、泰生ははい? と半ば叫んだ。
「斉藤ちゃんは雨巫女なんや、この人がマジで弾いたら雨乞いになるんや」
斉藤も否定せず、スマートフォンで雨雲レーダーを確認している。
「あ、雨雲近づいてます」
何やねんそれ。泰生は新たな不安が生まれるのを感じた。小林もちょっと変わってるし、このパート、やばいんちゃうか?
三村の使う松脂を知りたかっただけなのに、結局泰生はにわか雨が止むまで、ただ思いきり弾く訓練をする羽目になった。ボーイングする右の二の腕が、筋肉痛になりそうだった。