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第26話 ヘッドフォンと早とちり

 泰生は岡本と一緒に、JR大阪駅にほぼ直結しているショッピングビルに向かった。人の多さと暑さに頭をくらくらさせながら、すっと涼しい建物の中に入る。すると、何処となく周辺の店舗に高級感があって、岡本と一緒に怯んだ。


「ここ俺初めてなんやけど、合ってんの?」

「ここの5階のはず……やねん、しかしこの入りにくさ何なん」


 緊張しながら広々とした楽器店に辿りつくと、店員が歓迎してくれた。弦楽器コーナーには、フェア中ということもあって割に客もいた。ようやく落ち着いた2人は、予約していた松脂のお試しと楽器の試奏を開始した。

 岡本は普段使っているものよりも上等な楽器を試して、上機嫌だった。泰生は近所の店には置いていなかった松脂も見せてもらい、試すためにこれから使うのと同じコントラバスを貸してもらったが、楽器が現在40万するブランドだとわかり、心臓がきゅっとなった。

 店員たちはあまり商売っ気が無いのか、泰生たちが学生だからか、楽器の購入を積極的には勧めて来ない。しかし岡本は試奏したうちの1台がとても気に入った様子で、カタログをしっかり受け取り、泰生は三村が使っているアメリカの松脂を買うつもりが、初めて見るドイツの製品に気持ちが傾いてしまった。


「こればかりは個人の弾き心地ですからね、上手い人と同じ松脂を使ってもその人と同じ音は出ませんし……でも今聴いた感じでは、この楽器とお客様のボーイングにはこれが一番合ってたように思います」


 そう店員に言われて、泰生はそのドイツの松脂を購入した。岡本はカタログをぱらぱらとめくり、気が動転した発言を繰り出した。


「マイ楽器買って、社会人なったら先生について習おかなぁ」


 その時、管楽器コーナーに、戸山と三村に似たカップルが入って行くのがちらっと見えた。カタログに夢中の岡本は気づいていない。泰生は松脂の入った小袋を鞄に入れながら、さりげなくそちらに足を向けたが、クラリネットのショーケースの前に居たのは、高校生っぽい女の子とその母親らしき2人だけだった。

 見間違いかと思っていると、岡本が同じフロアにあるCDショップに行こうと誘ってきた。今年12月の定期演奏会で演奏する曲はほぼ全曲決まっているが、来年の定期演奏会のプログラムは、クラブの幹事になる4回生の泰生たちに最終決定権がある。だから、特にメインの演奏曲を今から探しておかなくてはいけないのだ。

 ちなみに今年は、今月の頭にホールで聴いたベートーヴェンの交響曲第5番、「運命」がメインだった。知名度もさることながら、音楽の尺的にも無理が無く、聴きに来てもらいやすいのだそうだ。

 管弦楽団で演奏するような曲を全然知らない泰生は、視聴コーナーで「運命」の各楽章のさわりを確認した。備え付けのヘッドフォンは随分いい音で、やはりコントラバスが聴覚にずっしり響いてくる。


「俺は『第九』がしたいんやけど、2年連続ベートーヴェンは無いわなぁ」


 岡本はそう言って、最近発売されたばかりの「第九」のCDが視聴できるとわかり、ヘッドフォンを手にした。そして店の入口を見て、動きを止めた。

 泰生は岡本の視線の先を見て、あっ、と声を洩らした。戸山と三村が、木曜日と同じように、楽し気に語らいながら店に入って来たのだ。


「ちょ、こっち来るし」


 見てはいけないものを見てしまった気がして、思わず泰生はヘッドフォンを持つ岡本の手首を掴んで引っぱったが、岡本は何でもないように、こんにちは、と笑顔で彼らに挨拶した。

 三村は後輩2人と遭遇したことに驚いたようだった。


「お、梅田まで出てきてデートしてんのか?」

「弦楽器フェア覗いてました」

「ああ、店におったん? クラのリード見てたけど気ぃつかんかったわ」


 普通に会話する岡本と三村を見て、泰生は理解する。そうか、この2人の交際は、管弦楽団では公認なんやな。すると、戸山が後輩に姿を見られたことなど全く気にしていない風情で、泰生に話しかけてくる。


「何聴きに来たん?」

「『運命』と……今から『第九』を聴こうかと」

「ベートーヴェン好き?」

「いや、それ以前に全然知りません」


 そうやんなぁ、と戸山は泰生のどうしょうもない発言に理解を示した。


「吹奏楽畑におったら、アレンジ演奏せえへん限り、クラシック聴かへんもんな」


 戸山は、自分も第九は好きだと言って、岡本からヘッドフォンを受け取った。


「クラリネット割と美味しいし」


 言いながら視聴を始めた戸山は、すぐに真面目な表情になった。小柄で可愛らしい女性だが、その真剣な横顔は大人びていて、泰生はこの人が自分より1年先を歩いていることを実感する。

 三村は「第九」のCDのジャケットを見ながら、岡本と泰生に言った。


「そら4楽章の“歓喜のテーマ”を最初に弾くのコントラバスやし、俺もこれ演りたいわ……うちの大学に混声合唱あったらなぁ、共演頼めるのに」


 泰生の大学には、合唱系の音楽クラブは無い。混声合唱団は、10年ほど前に部員がいなくなり廃部になっていた。


「合唱頼めるんやったら、俺マーラー演りたいですね」

「尺いけるんやったら来年せえや、オケ足らんやろからOB呼んだらええやん」


 岡本と三村が語らう中、戸山が4楽章を聴いてみろと言って、ヘッドフォンを泰生に手渡してきた。彼女の耳に触れていた部分に温もりが残っていて、ちょっとどきっとした。

 「第九」の第4楽章の冒頭では、これまで演奏された3つの楽章のテーマを、チェロとコントラバスが、この音楽ではないと順番に否定していく。そしてあの有名なテーマが静かに生まれ出るのだ。面白いし、美味しいと泰生も思った。

 岡本は視聴した「第九」、泰生は「運命」のCDを買った。三村と戸山はもう少しCDを見ると言うので、先に店を出た。

 エスカレーターに乗ってから、泰生は前に立つ岡本に訊いた。


「あの2人、どれくらいつき合ってはるん?」


 岡本はえっ、と驚きの声を上げて、泰生を振り返った。


「あの人ら遠い親戚なんやで、知らんかった?」

「……へ?」

「百花姫はフリーっぽいけど、三村さんは彼女おるで、大阪のとある大学のオケの……ヴィオラやったかな?」


 親戚。自分の下世話な早とちりが発覚して、顔がぶわっと熱くなったのを泰生は自覚した。岡本は低く笑った。


「ま、何か結構仲いいし、血は繋がってないらしいけど」

「いや、こないだ岡本と飲む前に、大学の図書館で一緒におるとこ見かけて」

「ゼミ違うらしいけど同じ古典文学専攻やし、卒論のネタ探してたんちゃうか?」

「……専攻も一緒なんか、知らんかった」


 けらけらと岡本が笑う。


「まあ上級生の専攻なんか知らんわな、そんなに恥じんでもええやろ」


 泰生は黙って頷き、岡本が冷たいものを飲もうと誘うのに同意した。戸山と三村が交際している間柄ではないとわかり、ちょっとほっとしたのが何故なのか、泰生は自分でもよくわからなかった。


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