『管弦楽団か。いいと思う。長谷川って結構、弦楽器自分らしかおらんこと本気で寂しがってたもんな。。。』
旭陽から来た返信を再読してから、泰生は電車を降り、大学に向かう。ほんの数分歩くだけの距離でも、陽射しに腕の皮膚を焼かれそうだった。
今日と明日は試験と補講の予備日だが、キャンパスの中には人が歩いていなかった。木々の上から鳴き声を降らせてくる蝉と、空の高い場所を飛ぶ蜻蛉だけが元気だ。
学生会館に着くと、ここには人間が活動している空気があった。軽音楽部が小さいほうの音楽練習場を使っているのだろう、ドラムの音が微かに洩れ聞こえている。何部の者かわからないが、自販機で買ったジュースを数本抱えて、部室のある2階に向かう階段を登って行った。
泰生は音楽練習場の1枚目の扉を開き、下駄箱に数足のスニーカーやサンダルが置かれているのを見る。入部届を書いて、差し当たって練習しなくてはいけない楽譜を受け取るだけと聞いているのに。嫌な予感がしつつ靴を脱ぎ、2枚目の重い扉を開いた。すうっと冷たい風が、うなじの辺りを撫でた。
「おはよう、わざわざお疲れ」
泰生に声をかけたのは、コントラバスパートのリーダーであり、関西圏の他大学の管弦楽団と構成される、学生オーケストラ連盟の理事でもある三村だった。彼の隣には、楽譜を管理するライブラリアンを兼ねる、総務担当の戸山と、初めて会う眼鏡の男性が座っていた。
「パーカッションのリーダーで部長の
初顔合わせの男性に、こちらから挨拶する前に言われてしまい、泰生は慌てて自己紹介した。
今日は音楽練習場には椅子が散らばっておらず、4回生たちの前に小さなテーブルがひとつ置いてあり、その脇にはコントラバスパートの2回生の小林と、今日楽器を修理に出した1回生の斉藤、そして何故か岡本が座っている。
どうして入部届を、こんな大勢の前で書かなくてはいけないのかよくわからないが、まず泰生は高橋の前に座るよう指示され、入部届に名前と今日の日づけを書くよう言われた。
首を伸ばして泰生がペンを動かすのを見ていた戸山が、小さく笑った。
「結婚証明書にサインしてるみたいやな」
「どちらかというと、フリーメイソンの入会の儀式みたいな?」
高橋が笑い混じりに応じたのに、やめんかい、と三村が突っ込んだ。上級生の冗談を聞き流して、泰生は自分の名を丁寧に書き、ペンを置く。
「管弦楽団の練習日は吹部と一緒で、普段は月水金です……でも文化祭と定期演奏会の練習が始まるんで、もうお盆明けからは火曜も練習するし、10月になったら木曜もなるべく出てほしいです」
高橋の説明に、泰生ははい、と答えた。定演が近づけば、土曜にも練習が入るだろう。その辺りは、吹奏楽部でも経験済みだ。
「長谷川くんは3回生やし、ぼちぼちプレ就活も始まるし、慣れるまで大変かもしれん……でも音楽は楽しくやってなんぼやから、決して無理の無いように活動してください」
では、と高橋は話を戸山に引き継ぐべく席を彼女に譲った。
「8月は学園の夏休み、つまりお盆休みやけど、それ以外の期間はここで自由に練習できます、鍵は守衛室で借りてください」
そう説明してから、戸山は楽譜のコピーの束を泰生に差し出す。
「文化祭と定演の、現時点で決まってる全曲です、パートは調整してくれたらいいと思う……あとこれ、10月までの予定やけど、来月末の夏合宿は原則全日程出席してほしいかな」
こうしてごっそり楽譜を受け取るのは初めてで、軽い緊張感が泰生の身体の深い場所で生まれる。戸山は微笑した。
「私が去年の春に管弦楽団に変わった時も、楽譜が吹奏楽と全く違って割と大変やったんやけど、たぶんコントラバスもそうやと思う……でも惑わされんと弾いて、やることは一緒」
これは転部という同じ体験を経た戸山からの、貴重なアドバイスだろう。泰生は頷いた。
「はい」
三村が戸山の後ろから言う。
「長谷川くんは2年半弾いてきてるから、あと1年半は楽譜通りに弾くこと以上に、いい音がいつも出せるように心がけてほしいな……必然的に来年はパートリーダーを任せることになると思うけど、まあその辺はあまり気負わんといて」
そんで、と高橋が左手に座る下級生たちを見る。
「あとは同級生と早よ仲良くなれたらええな、岡本は来年たぶん部長になるから、長谷川くんのその辺のことも任せるつもり」
泰生がちょっと驚いて岡本を見ると、彼はにっと笑ってピースサインを送ってきた。
高橋はイージーモードになって、椅子の上でひょいと足を組んだ。
「パートの人間ともう面通しが済んでるのはええこっちゃ、まあコントラバスパートは安泰や」
小林と斉藤は、表情に何やらわくわく感を醸し出している。多少弾ける先輩が1人増えるのが、嬉しいのかもしれない。そう思うと、泰生も何となく彼らが可愛く思えた。
それでやな、と高橋は探るような目線を泰生に送ってきた。
「長谷川くん吹部で鍵盤打楽器触ってたんやって? 百花姫から聞いたんやけど」
え? と泰生は戸山の顔を見た。彼女は微笑を崩さなかったが、彼女の背後の三村が高橋に苦情を申し立てる。
「やめろ、パーカッションには貸さへんで」
「文化祭だけ頼むわぁ……」
吹奏楽部では、楽器を演奏しながらフォーメーションをつくって歩くマーチングドリルを、定期演奏会を含めて年に数回やっている。その際コントラバスパートの面々は、パーカッションを手伝うのが通例で、泰生はシロフォンやグロッケンといった鍵盤楽器を担当した。その話をしているらしい。
「いやいや、管弦楽団の本番で使える代物ちゃいます」
泰生も思わず高橋に言う。しかし彼は引かない。
「コントラバスもパーカッションもこなす、伝説の部員にならへんか?」
「うちの大事な後輩に、訳わからん甘言を弄すんのやめてください高橋さん」
三村は絶対反対の立場らしい。これは夏休み中に、泰生がどうするか考えることになった。
「とにかく入部おめでとう、後で部員全員と、同回生とパートのグループRHINEも登録してな」
高橋の言葉を合図に、その場に拍手が起こった。泰生は椅子から立ち上がり、皆に一礼する。胸の奥のほうが、太陽光線を集めた黒い紙のように、ちりちりと焦げていくような感じがした。それは、1回生の時に吹奏楽部に入った時、一瞬感じてすぐ消えてしまったものと同じだった。
泰生はホルンかユーフォニウムをやってみたかった。しかし同級生に高校生からの経験者がおり、さらにくじ引きで負けたので、コントラバスを任されることになった。その時確かに、胸の中を熱くし焦がした期待感やときめきが、すっと失われたのだ。
あの時はコントラバスという楽器について、何も知らなかった。今も知っているとは言い難いけれど、もうあんな風にがっかりすることは無い。
いいと思う。かつて一緒に練習した友人からの言葉が、泰生を後押しする。熱くなった顔を上げると、新しい仲間たちにどう振る舞えばいいのかわからなかったが、自然と言葉が口を突いて出た。
「これから、よろしくお願いします」