泰生が復活した木村さんと共に、喫茶淡竹でモーニングのばたばたを捌き終える頃、岡本がキャリーケースを引いて出勤してきた。それを見て、店長の森は呆れ半分に笑う。
「仕事終わってから一回帰りぃや」
「いやぁ、暑いから移動は極力減らしたいんですって」
「まさしく直帰やな」
岡本は木村さんに苦笑されながら、銀色の四角い箱を、カウンターの中の奥に転がした。
泰生は、今日岡本が実家に帰ることをやっと察する。彼は泰生に訊いてきた。
「加太の海水浴場、来週の月曜に来ると思といてええ?」
「あ、うん、たぶんそうなる」
岡本は泰生が旅行で加太に行くと知り、もし会えたら会おうと言ってきた。親戚が海水浴場の海の家を経営しており、帰省中はそこを手伝っているというのだ。よく働くやっちゃなと泰生は思う。
泰生が早めの賄いのチーズトーストをカウンターの隅で食べ始めると、エプロン姿の岡本が洗い物を始め、木村さんがタイムカードを打刻した。
「文哉くんはお盆明けまで元気でな、泰生くんはまた明日」
「お疲れさまです」
木村さんは普段なら賄いを食べて帰るのだが、夏休み中の子どもたちの昼食を作るべく、すぐに店を出た。かつては母もそうだったので、泰生には木村さんの事情がよく理解できた。
「で? 長谷川くん、後で石田先生とこ行くんか?」
森に訊かれて、はい、と頷いた。今日朝一番に、教会の石田牧師がモーニングを食べに来た。この間の礼を言いたかったのだが、忙しくてままならなかったため、教会に行こうと思ったのだ。
食洗器にグラスを丁寧に並べていた岡本が、こちらを振り返った。
「長谷川いつの間に教会行ってきたん? 何か知らんけど牧師って結構忙しいらしいし、居てはるかな」
「火曜は幼稚園に夕方まで居てる子が多いみたいやし、先生もおると思うわ」
森の言葉に、さすが近所の情報網だと泰生は感心した。ちょっと暑いのが嫌だが、せっかく情報を得たので、やはり退勤後に教会に行くことにした。
商店街周辺に勤務する会社員たちは、食事を終えてからコーヒーを飲みに淡竹に来るので、平日は12時半から14時辺りが案外忙しい。泰生はこの波が引き、岡本が賄いを胃袋に収めるまで働いた。お盆明けまでしばらく顔を合わせないので、岡本との別れを少し惜しむ。
「ほな海の家の名前と場所教えて、行けそうやったら行くし」
「おう、食うもんはたぶんまけられへんけど、浮き輪とかパラソルは応相談やで」
岡本は明るく、またな、と言い、森と一緒に泰生を見送ってくれた。
泰生はそのまま、商店街を駅のほうに戻って行き、2つの私鉄の駅を通り過ぎて和風建築の教会に向かった。アーケードを抜けた途端に殺人的な陽射しが襲ってきて、あっという間に汗が吹き出す。
園児がいるので仕方ないのだが、こんな日に限って教会の門が閉まっていた。泰生は迷わずインターフォンを押す。石田が直ぐに出てくれた。
「ああ、長谷川くん? 鍵開けるし30秒で入って」
門のどこかがカチッと鳴った。泰生は門扉を押したが、鉄の熱さにあちっ! と独りで叫んでしまった。
教会の入口では今日も蚊取り線香が細い煙を上げていた。蚊が入るなら閉めたらいいのにと先日も思ったのだが、教会の扉は常に開けておくのが原則だという。
ほんのりと涼しい木造の礼拝堂に入り、思わずひと息ついた。祭壇の左手の扉から、こんにちは、と言いながら石田が出てくる。あの奥が牧師の居室なのだろう。
「淡竹で朝
石田は微笑し、今日もよく冷えた茶を出してくれた。泰生は礼を言う。
「こないだはありがとうございました、お話しした友達から先週RHINEが来て、誤解ではないですけど、そういうのが解けたというか……」
それはよかった、と応じた石田は、何となく泰生の言葉を予想していたようでもあった。
「でもやっぱりあっちは俺のことが、そういう意味で好きみたいなんで、あんまりしばしば顔は合わさんほうがいいのかなって思ってます」
「何で? 関係、元に戻したかったんでしょ?」
「いや、俺はそうですけど、もしかしたらあっちがしんどいかなって」
ふんふん、と石田は頷いた。
「こないだ話せへんかったんですけど、長谷川くんの大学は仏教系やし、色相って言葉知ってるかな」
いきなり振られて、泰生は目を瞬いた。大学では、1回生の時に全員が仏教の概論を1コマ履修することになっている。あまり自信が無かったが、答えた。
「
「そうそう、僕は家がクリスチャンやし、キリスト教の勉強しかしてへんからあれやけど、目に見えるものとか、実在するものを指すんやったね?」
あ、たぶん、と泰生は言った。確か講師も、ざっくり言うとそう、と説明していた。石田は続ける。
「こないだ長谷川くんの話を聞いた時、最初相手の子に連絡してみたら早いやんって言おかと思ったんやけど、やめといたんです……ちょっと見えへんものに振り回されてるのかなと」
泰生はその言葉に、納得せざるを得なかった。旭陽とのことを、重く悪いように考え過ぎていたように、今は思う。
「まあ、色もまた空なりって般若心経で言うてるし、キリスト教も常々見えへんもんに思いを致してます……でもたまに、見えへんもんに気持ちを持ってかれ過ぎて、見えてるもんまで見えんようになるのは、実際よくあるんやけど、気ぃつけなあかん時がありますね」
石田は、見えないもののことばかり考え過ぎるには、まだ泰生は若いと言う。
「要するに、行動してみることも大事やと、おじさんに近づいている身として言いたい訳です……それでも、目に見えへん縁が無ければ関係が戻らへんのも、僕の経験上の事実なんやけどね」
はい、と泰生は素直に答えた。自分がこの1ヶ月悩んだことや振り回されたことなど、10年後には、振り返ったらアホちゃうかと笑ってしまうほど些細な事象になるかもしれない。「色」を見据えず「空」ばかり見る、独りよがりな煩悶だったかもしれない。でも、これが無ければ先に進めなかったという確信はある。
泰生は香ばしい麦茶に口をつけ、旭陽と近いうちに会おうかと思った。旭陽がしんどいかどうかも、顔を合わせてみないとわからない。
石田はやはり柔和な笑みを眼鏡の奥の目に浮かべ、言った。
「たまには岡本くんと礼拝に来てください」
「……えっと、それって面白いですか?」
「社会勉強です、受洗しろとは言いませんし、うちはカルトと違いますよ」
あ、なるほど。これも「色」を見ることなんかな。泰生は勝手に納得して、石田の顔を見る。お互いに、自然と笑顔になった。