怒涛のような7月が終わろうとしていた。この1ヶ月、自分の身に起きたことを振り返ると、泰生にはやはり、瑣末なことだったとはまだ思えない。
やたらとたくさんの人と、顔見知りになった。普段の自分からはちょっと考えられないレベルなので、暑さのせいでどうかしているのだろう。そもそも、いつも電車の中から景色を見ていて興味を持ったからといって、商店街のあるあの駅で途中下車しようなどと思ったことが、自分的にはかなりおかしい。
夏休みに入って、毎朝アルバイトに行く次男に、両親は驚いている。近所に幾らでも働く場所があるのに、5つ先の駅で降りる個人経営の喫茶店まで行くなんて。
夕飯を済ませると、その話題になった。母は近所のショッピングモールが大改装する以前は、あの商店街に買い物に行ったというが、喫茶淡竹のことは知らなかった。
「そんな奥のほうに喫茶店あったん、記憶に無いわ」
母の言葉に、父が応じる。
「もう15年くらい行ってへんけど、チェーンの喫茶店増えてたし、頑張ってはるんやな」
「何でおとん、あんなとこ行くねん」
思わず泰生が突っ込むと、父は意外そうな顔をする。
「会社から酒蔵と、
岡本と飲んだ焼き鳥屋から近い場所に、高瀬川の支流が流れており、そこを遊覧船が運行しているらしい。
すると母がにやりと笑う。
「元カノも住んどったしな」
「30年前の話すんな」
父は否定しなかった。まあ、若い時にはいろいろあるものだ。無いほうがおかしい。泰生が小さく笑っていると、リビングのテーブルの上に放置していたスマートフォンがぶるぶる震えた。泰生は立ち上がりそちらに向かう。
電話の着信だった。井上旭陽の名を見て、軽くどきっとする。しかし、彼に対してはもう変な風にどきどきしなくていいと思い直し、ボタンを押した。
「あ、長谷川? 今いい?」
「うん、大丈夫」
泰生はスマホ片手にリビングを出て、兄と共有する部屋に向かった。友樹は今日は会社の人とビアガーデンに行くので、帰りが遅くなると聞いている。
「久しぶり、RHINEはしてたけど」
旭陽の声が、随分懐かしく思えた。もし吹奏楽部を辞めていなかったとしても、試験期間に入りクラブも休みになれば、彼と2週間は顔を合わせなかっただろうと思う。しかし、一度関係がぷっつりと切れてしまったという事実が、実際以上の時間の経過を、泰生に感じさせた。
「うん、毎日暑いけど元気そうでよかった」
「管弦楽団の練習は? 無いの?」
「今夏休みやねん、吹部みたいにコンクールもサマコンも無いから」
「へえ、この暑さやしちょっと羨ましいなぁ」
コンクールにエントリーする吹奏楽の団体は、今が本番前の追い込みの時期だ。泰生も2年間そんな夏を過ごしたので、実のところ、試験が終わって毎日アルバイトに励み、週末に家族と海水浴なんて信じられない。
椅子に座って、何の用か尋ねようとすると、旭陽のほうから話を進めてきた。
「今週末のサマコン観に来てほしいなっていうのと、コンクール……はめんどくさいか」
サマーコンサートは、土曜の昼だった。例年吹奏楽部の8月上旬は、サマコンの翌週にコンクールの予選というハードなスケジュールになる。
「行かれへんことは無いけど……」
泰生は言葉を濁した。皆の演奏は聴きたいが、退部した自分が、本来なら出演するはずだったコンサートをのんびり鑑賞しに行ってもいいものなのか。サマーコンサートは主にホールの近所の人たちと、現役部員の家族が楽しみに来るが、OBもやってくる。彼らに遭遇したらどう挨拶すればいいかわからないし、むしろ姿を見られたくない気がする。
正直にそう言うと、旭陽の声が明らかに沈んだ。
「うーん、そう言うかなとは思ったんやけど、文学部の人は仕方ないんやし……」
そして、さもいいことを思いついたような声音になった。
「戸山さんと一緒に、堂々と来たらええやん」
戸山百花の名がいきなり出て、泰生は軽い動揺を隠すのにやや苦労した。
「あ、井上は戸山さんが管弦楽団にいるの知ってたんや」
「長谷川は知らんかったんか」
「うん、びっくりしたわ……でも、オケに変わってからめっちゃ練習しはったらしくて、就活忙しいのにクラブは楽しいみたいやで」
泰生が言うと、意外なことに、よかった、と旭陽は応じた。
「だって戸山さん前から吹けたのに、結構不遇ちゃうかった? 2回の時、吹けへん上級生にソロ全部取られてはったやろ」
言われてみればそうで、それが戸山に吹奏楽部を去る決心をさせたのかもしれない。吹奏楽部では下級生に技術があっても、上級生が優先的にソロを任された。泰生たちの同期にも、そのことに不満を持つ者がいたし、せめてコンクールでは吹ける人にやらせたらいいのにと、泰生も思っていた。
「たまたまやと思うけど、キャンパス変わった文学部の不遇な部員が、管弦楽団に流れるパターンが続いてんのかな」
旭陽が泰生を「不遇な部員」と見なしているのは少し違う気もするが、あと1年半の音楽生活を、吹奏楽部でなく管弦楽団で送ることにしてよかったと、泰生は思っている。口にするのは控えたけれど。
自分の気持ちに余裕ができたからか、OBの目は気になるが、吹奏楽部の演奏は聴きたいと心から思えた。
「……ほなちょっと、戸山さん誘ってみよか」
果たして戸山は、古巣の演奏会を観たいだろうか。自信は無いが、彼女に声をかける理由ができたことが、何となく泰生の気持ちを浮き立たせた。
旭陽は、嬉しそうな声になる。
「そうしてや、長谷川が来てくれること、あんまりいろんな人に言わんとくから気楽に来て」
電話の向こうの彼が本当に嬉しそうなので、泰生もまあいいか、と思った。旭陽とこうして普通に話せることが、素直に嬉しい。決して以前通りではないとは感じるけれど、それは後ろ向きな意味ではない。
「あ、電車来た……ほなまたね、土曜日待ってるわ」
旭陽は今しがたまで練習していたのだ。泰生はエールを送る。
「頑張って、楽しみにしてるわ……ほなまた」
土曜日の午後は、旭陽とコントラバスパートの2人にだけ差し入れを買って、出かけよう。電話を切った後も、胸の中がぽかぽかする。
そういえば昨日、岡本も「またな」と言って泰生を見送ってくれた。
新しい友人と、旧い友人と。どちらも再会の約束をこめて、またね、と言ってくれる。それに同じように、またね、と返せることの幸福。
泰生はスマートフォンを持ったまま、リビングに戻った。両親は息子が穏やかに微笑しているのを見て、電話の相手が誰だったのか聞き出したい様子だった。