家族全員揃って夕飯を終えた後、泰生は気もそぞろに、手の中のスマートフォンの待ち受け画面を点けたり消したりしていた。明後日の吹奏楽部のサマーコンサートに、自分と同じ元吹奏楽部員で、今は管弦楽団のクラリネッティストである戸山百花を誘うかどうか、まだ迷っている。
よくよく考えると、4回生は最後のサマコンなので、同期の誰かが彼女を誘っている可能性がある。逆に誰も彼女に声をかけていなかったとしたら、自分は同期の井上旭陽から誘われたと話すことさえ、ちょっと気まずいように思う。
いや、ごちゃごちゃ考えていても埒があかない。泰生は伏見のお宮さんの近くの教会の、石田牧師の柔和な笑顔を思い出した。招待してもらったばかりの、管弦楽団全員のグループRHINEのメンバーの中から、「MOMOKA TOYAMA」というアカウントを見つけだす。
泰生はちょっとどきどきしながらメッセージを打ち込んだ。
『こんばんは、長谷川です。先日はどうもありがとうございました。日曜日、吹部のサマコンがいつものホールであるようなんですが、お暇でしたら一緒に行きませんか?』
誤字脱字だけ確認して、すぐに送信した。すごいことをしてしまったような気がして深呼吸していると、部屋からレポート用紙と筆記具を持ってきた兄の友樹に、変な目で見られた。
想定外に戸山からの返事が早かったので、うおっ、と泰生はのけ反った。
『こんばんは、連絡ありがとう。実は同期から、最後やし観に来てと言われてるんやけど、めちゃ迷ってたとこでした』
泰生はやっぱり、と思った。旭陽もそうだが、退部した人間が行きづらいと想像しないのだろうか。まあいいのだが。
『僕は井上から誘われました。辞めたのにどうかと思ったのですが、ちょっと行きたいなと』
『じゃあ一緒にこっそり行きましょう。ホールの前だと目立つので、東寺の駅でなるべくぎりぎりに集合しよか笑』
戸山は東山に住んでいるので、駅の改札で待ち合わせる。段取りは速やかに整った。管弦楽団に移った元部員たちが、人目を忍んで行くというシチュエーションが、何となく面白かった。
これってデートやろか、などと泰生が密かに思いを巡らしている横で、兄の友樹は何やら手書きのリストを作っていた。泰生が彼の手許を覗き込むと、それは3日後の旅行に持って行く物のリストだった。
「気合い入り過ぎちゃうん」
驚いた泰生は、思わず突っ込んだ。すると友樹は、大真面目な顔で言う。
「2泊3日で2日目海水浴やろ、ちゃんとチェックリスト作っとかな、あれが無いこれ忘れたとか、マジで嫌やもん」
ごもっともなのだが、ちょっと大げさな気がする。しかし友樹の行動は、小さい頃の失敗に基づいていた。
「おまえ忘れたん? 俺が中1でおまえが小4の夏に琵琶湖に泳ぎに行った時、民宿に帰ってきてお風呂に入る時、おかんが俺らの替えのパンツを持ってきてへんってわかって……」
「あ、そういうたらそんなことあったな」
泰生はのんびり応じた。確かあれは、
友樹は忌まわしいものが脳内に去来したと言わんばかりに、難しい顔になる。
「俺ほんまにあれ、トラウマレベルに嫌やったから、風呂に入る回数だけパンツは持って行く」
酷い出来事ではあるが、すぐに新しい下着に替えることもできたので、今となれば笑える思い出だ。だから兄のこだわりがちょっと理解しがたいと思いつつ、同意しておく。
「ああ、まあ、泊まるとこに温泉もあるし、パンツは大事やな……」
「ビーサンと日焼け止め買うたか? 浮き輪とか要らんの?」
「明日バイトの帰りに買うわ」
あの商店街にはドラッグストアが多い。それに喫茶淡竹の森店長なら、ビーチサンダルを沢山取り扱う隠れた名店を知っていそうだ。
大学の管弦楽団の友人である岡本文哉は、泰生一家が訪れる予定の海水浴場の、海の家のひとつで今日からアルバイトを始めている。彼は海の家の看板の前で、Tシャツと短パン姿の写真を朝から送ってきてくれた。「ここな」という簡単なメッセージをつけて。
泰生はこの店で浮き輪やパラソルを借りることを兄に提案する。最近あまり長距離の運転をしていない父のために、和歌山市まで私鉄で行き、駅前でレンタカーを借りる段取りをしているので、荷物は少ないほうがよかった。
友樹は泰生のスマートフォンの画面を見て、お、と呟く。
「シュッとした子やな、ビーチでバイトするような友達がおまえにおるとは」
「チェリストやで、海の家が親戚のとこなんやって」
泰生が言うと、兄は意外そうな表情になった。
「オケのほうが吹部より陽キャ多いんか?」
泰生はさあ、と首を傾げる。岡本は陽キャだと思うし、4回生のコントラバシニストの三村はスポーツマン風味だが、その他の男子部員は吹奏楽部と同じ系統だと思う。と言っても泰生はまだ、管弦楽団の全メンバーを知らないのだが。
友樹はいきなり、あっ! と叫んだ。
「花火!」
「泊まんの海の前ちゃうやん、できひんやろ」
友樹は本当は、彼女と海水浴に行って、花火がしたかったのだろう。そう思うと、泰生は兄のテンションがおかしいことを責める気になれない。
畳んだ洗濯物を兄弟の前に置いた母が、友樹の作っているリストを見て笑う。
「自分らで用意してくれるし楽やわぁ」
「俺らは自分のもん用意するけど、おとんのパンツの替えとか忘れなや」
友樹は昔の恨みをこめて母に言ったが、彼女はきょとんとした。
「パンツなんか忘れへんわ、何言うてんの」
過去のしくじりを全く記憶していない母の言葉に、泰生は吹き出した。友樹が眉間に皺を寄せあ然とするので、ますます笑えた。
兄も父も有給休暇を使って行く家族旅行だ。素直に楽しみだった。明後日戸山に会ったら、海で岡本と会うのだと話しておこう。それで、戸山にお土産を買おう。
泰生の今年の夏の扉が、ようやく開きかけていた。その隙間から洩れ出ている光は、いつになくきらきらしていた。
〈おわり〉