空気に冬のきざしが混じる、11月の初め。
極東エリアの東端に位置する小さな島国は、すっかり晩秋の
そんな、
銀色の、飾り気のない三輪バイク。長距離走行に適したツアラー型トライクだ。エンジン回りが特別に改良されているのか、走行音や排気ガスはほとんど出ていなかった。
前輪タイヤがブナの根に乗り上げ、車体が大きく跳ねる。
「ひゃっ」
背中から小さな悲鳴が聞こえて、リュッカは後ろの同乗者に話しかけた。
「大丈夫ですか、チト様?」
「…………」
「結構、泥も跳ねましたね。お召し物は汚れてないですか?」
「…………」
――やはり無視か。
返事はないだろうと思っていたものの、実際にシカトされるとなかなか
リュッカは振り向きたくなる気持ちを抑え、バイオ燃料で走る三輪バイクのギアを落とした。
後部座席に大量の荷物とチトを乗せたそれは、
植物にまつわる異変や事件を巡る、VERT特派員の移動手段がバイクだなんて。
リュッカは初め不審を抱いたが、その理由は、第一の派遣先「ヨナギ村」に向かう道中で
チトとリュッカの派遣先は、交通アクセスがよい場所ばかりではない。公共交通機関が存在しない土地や、車両では通れない
そう判断したVERTは正しい。正しいのだが……
三輪バイクを繰るリュッカには、気に入らないことがひとつ。
リュッカの後ろに座るチトが、いっこうに
(俺、やっぱり嫌われているんだろうか)
リュッカは、時計塔でチトと初めて会ったときを思い出した。
転びそうになったチトに手を差し伸べようとして、
(……だったら、バイクで
後部座席の存在感に、もやもやが
VERT本部を出発し、本島に到着して三日。チトは基本的に、野営でも口をきいてくれなかった。敵視というより無視。リュッカを同行者に選んだのはチトだと聞いていたが、どうにも当たりがキツくて凹む。特派員に任命されて舞い上がっていた気持ちは、とっくに地に落ちていた。
チトは〈一級庭師〉だからリュッカを見下しているのか、それとも、単純にリュッカが気に入らないのか。
いずれにしたって接し方がわからない。それなのに――近い。
「あの……チト様。バイクから落ちたら危ないので、せめて、俺の腰に
雨上がりでぬかるむ山道。うっかりバイクで転倒してチトを傷つけようものなら、その後の処遇が恐ろしい。
リュッカは熟考の末にお願いしてみたが、案の定チトには聞き入れられず、後ろに沈黙と
それから、大した会話もないまま山を行くこと数時間。
頭上には
風景だけ切り取ればのどかな旅路だ。それなのに、後ろでチトが身をよじるたび、居心地の悪さに気が
仕事とはいえ、二人きりの旅なのだ。道すがら、もっと気楽に会話をしたり、天気がよければ鼻歌を歌ったりして移動したかった。
リュッカがシケた顔で運転を続けていると、
「きみ。次の十字路を、右折してくれ」
後ろから、鈴を鳴らすような声がした。
目的地の「ヨナギ村」が近いのか――どうやらチトは、道案内をしてくれるつもりらしい。
後部座席のチトはしきりに、地図か何かを確認しているようだった。VERTの特派員として必要な書類は、義指の動作が難しいリュッカに代わって、すべてチトが管理していた。
リュッカが投げかける会話には応じないのに、仕事には随分熱心なチト。
リュッカは苛立ちを抑えつつ、アプローチを変えて尋ねてみた。
「……ええと、チト様。よかったら、俺たちが向かっている『ヨナギ村』からの依頼について、もう一度教えてくれませんか?」
考えるような沈黙が数秒。
チトはリュッカの耳元で溜め息を吐くと、仕方ない、といった声色で話し出した。
「依頼主は
「……なるほど」
――チトって、こんなふうに
リュッカはそれに気を取られて、ほとんど内容を聞いていなかった。
少女っぽくない、どこか
VERTの最高権力者という立場にあったせいで、そういう喋り方を求められてきたのだろうか。
「ゆえに、VERTへの依頼内容は『咲かなくなったキクの原因調査および対処』……って、きみ、ちゃんと聞いているのか?」
「き、聞いてますよ! ……ただちょっと路面が悪くて、バイクの運転に集中してたんです。参っちゃいますよね、いまだにこんな未舗装路があるなんて」
リュッカが取り
「仕方ないさ。ヨナギ村は
「重点文化保存地区?」
「国が定めた特別なエリアのことだ。地域の伝統文化を残すために、建物や風景を、昔のまま保存する決まりになっている。ヨナギ村の住人たちは、便利な暮らしを諦めるかわりに、伝統文化の保護者として生活しているんだ」
ヨナギ村までの道がまったく整備されていないのは、そのためか。
リュッカは喉元まで出かかっていた不満をぐっと飲み込んだ。
「実際に、ヨナギ村のキクの栽培は、昔ながらの露地栽培だ。外部環境に左右されやすいから、花が咲かなくなることだって当然ある――だから、わたしやきみが呼ばれたんだ」
チトは事務的にそう告げて、口を閉じた。
「説明責任は果たした」とでも言いたげな、よそよそしい温度感。リュッカはチトのつれなさの綻びを探した。
今みたいに、チトは仕事に必要な話はしてくれる。リュッカの疑問も放置せずに答えてくれる。思うにチトは、リュッカを
きっと、チトは警戒心が強くて、人見知りが激しいだけ。リュッカは唐突にそんな気がしたし、そう思いたかった。
リュッカは情に訴えるように、小声でそっと頼んでみた。
「チト様……できれば、俺のことは名前で呼んでくれませんか?『きみ』と呼ばれるのは他人行儀な感じで、パートナーとしてちょっと寂しいです」
「…………」
「だめ、でしょうか?」
「…………わかった。それではわたしのことも――ひゃうっ!」
瞬間、小石に乗り上げた三輪バイクの弾みで、チトはぴょんと飛び上がった。タンデムシートにお尻を打ち付け、言葉尻が悲鳴でかき消える。
チトは何と言いたかったのか――リュッカはついに聞きそびれた。
出会ってから、リュッカの期待を裏切り続けるチト。口調こそ老成しているが、その仕草はどう見ても、小柄で非力な
彼女は本当に、植物を操る異能〈みどりのゆび〉の保有者なのだろうか?
そんな疑問がリュッカの脳裏を
精巧に作られた人形のようなチトは、ふとした衝撃で壊れてしまいそうで、
(ああ……つまり、
リュッカはたちまち、自分が、チトの護衛として当てがわれたことを悟った。
自分の役割は、か弱いチトのボディーガードなのだ。リュッカは急に理解した。
先日出されたVERT特派員への辞令。あれは、リュッカの知識や経験が買われたわけではない。そして多分、両腕を失ったことへの
リュッカは義指に力を入れて、三輪バイクのハンドルを握り直した。
――と、そのとき、視界に入る樹木の異変に気がついた。
赤く色づいた広葉樹の幹に、無数の
幹の傷をよく見ると、それは地面と水平に刻まれた
鋭い爪のようなもので
リュッカはぞっとして身を
「リュッカ。間もなく見えてくる木橋を渡ったら、今度は左折してくれ。もうすぐヨナギ村だ。わたしの庭師としての初仕事――絶対に成功させないと」
チトは自分を
「そうですね……急ぎましょう」
リュッカは