オレは、いつものようにギルド『ストレイキャット』の入り口で、箒を手に掃き掃除をしながら開店準備に取り掛かっていた。朝日が磨かれた石畳をオレンジ色に照らし出し、新しい一日が始まる予感に、胸の奥がほんの少しだけ弾む。この静かで穏やかな時間がオレは結構好きだったりする。
「よし、これで大丈夫だな」
一通り掃き終え、箒を壁に立てかける。ギルド『ストレイキャット』の室内は、リリスさんとジェシカさん、そしてエドガーさんの3人が、開店前に手分けして隅々まで綺麗に磨き上げてくれている。おかげで、壁も床もピカピカで気持ちがいい。
冒険者ギルドの顔とも言えるクエストボードには、昨日、ギルド管理機関から受け取ってきたばかりの新しい依頼書がしっかりと貼り付けられている。様々な討伐依頼や護衛依頼、素材採取の依頼などが並び冒険者たちの挑戦を待っている。
これで、開店と同時に冒険者たちがいつでも依頼を開始できる。朝早くからこうして準備をするのが、もうすっかりオレたちの日課だ。
そんな穏やかな時間がゆっくりと流れる中、ふと、少し遠くの方から鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。何だろうあれは?目を凝らすと、真っ赤な髪を可愛らしいおさげにし、少し長めの黒を基調としたローブを身にまとった小さな少女が、こちらに向かって一人で歩いてくるのが見えた。右手には使い込まれた様子の、少し煤けたような色の樫の杖が握られている。
冒険者かな?あの杖の感じだとジョブは魔法使いだろうか?それにしても随分と幼いな。見たところ、まだ12歳から13歳くらいだろうか?このギルドにも若い冒険者はたまにやって来るけれど、こんなに小さな子は珍しい。
それにしても、あの目を引く真っ赤な髪は遠くからでもはっきりと分かるなぁ……まるで朝日に照らされた炎のようだ。
そしてその少女は、何か目的があるように、迷うことなくまっすぐにオレの目の前までやって来ると、少し遠慮がちな様子もなくいきなり話しかけてきた。
「ねぇ。ギルド『ストレイキャット』って、ここ?」
「はい、その通りですよ。ようこそ、冒険者ギルド『ストレイキャット』へ。遠いところから、よくいらっしゃいました。ですが、申し訳ありません。開店までもう少しだけお待ちいただけますか?もう間もなく開けますので」
オレは丁寧に頭を下げて答えた。初めて来る人には、良い印象を持ってもらいたいからな。そして、ゆっくりと顔を上げると、目の前の赤い髪の少女が先ほどまでの雰囲気とは一変して、露骨に不機嫌そうな顔をしていることに気づいた。その小さな口は「むー」とへの字に曲がり、大きな瞳は不満げにオレを睨んでいた。
「えっ?」
何だ?何か気に障ることを言ってしまっただろうか?オレは首を傾げた。
「あんたが、ここのギルドマスター?」
少女は、まるでオレの返答を待つ間も惜しいとばかりに、詰め寄るように言った。その声には、さっきまでの遠慮がちな様子は微塵も感じられない。
「はい。そうですけど……」
まさか、オレの顔を見て何か不満でもあるんだろうか?別に、そんなに怪しい風貌をしているつもりはないんだけど……自分の顔を触って確認してしまう。
「じゃあ、さっさと中にいれなさいよ!最近、王都で噂になってるし、このアタシがわざわざ来てあげたんだから、感謝しなさいよね!」
はっ、はい?なんだこいつ。いきなりものすごく態度が大きいぞ。初対面なのに一体どういうつもりなんだ?さっきまでの可愛らしい雰囲気はどこへやら、まるで小さな女王様みたいだ。その威丈高な態度は、まるでオレが下僕であるかのように見下している。
いくらなんでも失礼すぎるだろ。オレが呆気に取られていると、赤い髪の少女はオレの返事を待つこともなく、ギルドの扉を遠慮なく開け放ち、ズカズカとギルドの中に入っていく。
「ちょ……ちょっと!勝手に、入らないで下さい!まだ開店前だって言いましたよね!」
オレは慌てて、その傍若無人な赤い髪の少女を止めようとすると、たまたま入り口近くで磨き上げられた鎧の手入れをしていたエドガーさんが、すっと腕を伸ばしその赤い髪の少女の黒いローブの襟を掴んで、まるで小動物を持ち上げるかのように軽く持ち上げた。少女の足が宙に浮きじたばたと揺れる。
「待て。お前もギルド冒険者なら、きちんとルールを守れ。まだ開店前だぞ」
エドガーさんの声は、普段の落ち着いたトーンそのままだったが、その中に有無を言わせない静かな迫力があった。
「痛いわね!離しなさいよ!アタシは『ストレイキャット』に用があるんだから!」
持ち上げられた少女は、必死に両手両足をバタバタさせて抵抗するが、エドガーさんはまるで重さを感じていないかのように微動だにしない。というより片手で軽々と持ち上げるなんて……いや、毎日あんな重そうな、大きな盾を軽々と持ち歩いているんだもんな。そりゃあ、これくらいの子供なら造作もないか。
そんな騒ぎに気づいたのか、ギルドの奥のカウンターの中から、リリスさんとジェシカさんもこちらにやってきた。
「どうしたのマスター?」
「いや、この子が勝手に……」
オレがそう言いかけると、ジェシカさんは大きなため息を一つ吐き出し、呆れたように言った。
「はぁ……騒がしいから何かあったのかって心配したのに。あの、マスター。そんな子供も止められないの?」
「もしかして、そのプチトマトみたいな女の子が、エミルくんの趣味なんですか?こんな近くに、スタイル抜群の銀髪美女の私がいるのに、まさかロリコンに目覚めちゃったんですか?」
リリスさんの言葉に、ジェシカさんが目を丸くする。いやいや、そんなわけないだろ!
「違いますよ!?」
オレは慌てて否定した。……まあ、確かにあの赤い髪はトマトみたいで可愛らしいかもしれないけどさ。趣味とかそういうんじゃないんだってば。何でそんな話になるんだよ。
「とりあえず、皆さん落ち着いて下さい。その子はお客様ですよ」
「そうなんですか?てっきり、エミルくんの趣味の女の子かと思いました。エミルくんは腕っぷしも弱いですし、小さい子にしか強く言えなそうですし、男として良いところが皆無ですし、こういうワガママ放題のガキの方が好みっぽいですもんね?」
リリスさんの言葉はいつものように容赦がない。というか、だいぶ偏見が入っているんだが……腕っぷしが弱いのは認めるけど、別に小さい子に強く当たろうと思ったことなんて一度もないし、男として良いところが皆無って……ちょっと傷つくんですけど。
とりあえず、エドガーさんに掴まれてまだバタバタと抵抗している赤い髪の少女を解放してあげることにした。このままでは、いつまで経っても話が進まない。
「ふんっ!やっと解放されたわ」
地面に足をつけた途端、少女は埃を払うような仕草をして、腕を組んで、ふてくされたように言った。その赤い頬はまだ少し怒りで赤らんでいる。とりあえず話を聞こうとジェシカさんが話し始める。
「それで、あなたの名前は?冒険証は持っているの?」
「はぁ?ないわよ。今から登録するんじゃない!空気読めない受付嬢ね!アタシは最強の天才魔法少女アンナよ!」
そのアンナと名乗る少女が、自信満々にそう言い放つと、なぜかギルドの中に一瞬の静寂が流れた。リリスさんとジェシカさんは目を丸くし、エドガーさんは微動だにしないものの、その顔には僅かな驚きの色が浮かんでいたように見えた。相手はまだ子供だよ?みんな、もう少し優しくしてあげようよ。
「……叩いていい?」
ジェシカさんが、心底呆れたといった様子で呟いた。その手は既に、何かを叩きつけるかのように拳が握りしめられている。
「ダメですよ、ジェシカさん!」
「面白いこと言う女の子ですね?天才ってたかが初級の炎属性魔法のファイアボールとかしか使えないですよね?どうせ周りから『この歳で魔法使えるのは凄い!天才!』とか言われて、いい気になっているだけですよ。それか、たまたまそこら辺にいたスライムとかゴブリンとかを倒して『私ってば最強!天才!』とか勘違いしているだけじゃないんですか?最初は誰でもそう思います。初級の冒険者が陥りやすい典型的なあるあるですよね。ダメですよ、その歳で自分を見失っちゃ?お母さんのところに帰ったほうがいいんじゃないですか?」
リリスさんの容赦ない毒舌は、まるで何本もの鋭い針のように、アンナに突き刺さる。何も初対面の、しかもまだ子供相手にここまで言わなくても……リリスさんの毒舌は、時として本当に容赦がない。
それを聞いたアンナは、みるみるうちに顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな表情で怒り出した。その小さな拳を震わせ、大きな瞳には涙が浮かんでいる。
「むぅ~!なによ、この銀髪のおばさん!ギルド受付嬢のくせに偉そうにしゃしゃりでてきて!アタシは本当に最強で天才なんだから!」
アンナの言葉に、今度はリリスさんの眉がぴくりと動いた。その表情はわずかに怒りの感情が滲んでいるように見えた。
「……殺していいですか?」
リリスさんが、低い声で呟いた。その手は、いつの間にか握っていた書類をぐしゃりと握りつぶしている。
「それは絶対にダメですよ、リリスさん!落ち着いて!お客様に手を出すなんて、あってはならないことですから!」
オレは必死に二人の間に割って入った。エドガーさんは呆れたようにため息をついていた。
こうして、自分を最強の天才魔法少女と呼ぶ、赤い髪の少女アンナによって、オレたちの平穏な日常は、まるで突然吹き荒れた嵐のような騒がしさに巻き込まれることになったのだった。