佐藤悠斗、25歳。新居のバスルームは、彼の美意識が結晶化した空間になりつつあった。これまでの雑多な生活感から脱却し、「スマートに立ち回る」男の生活空間を確立するため、細部にまでこだわったのだ。中でも彼が特に気に入っていたのが、バスルームのボトル類だ。
「ふふ…いいじゃないか」
悠斗は棚に並んだ三つの白い詰め替え用ボトルを撫でた。一切の無駄を削ぎ落としたミニマルなデザイン。これぞ求めていた統一感だ。スーパーで選んだ詰め替えパックも、その雰囲気に合わせて少しばかり贅沢なものにした。
一つは、優雅な響きの『アロマフローラル』。
二つ目は、何やら体に良さそうな『ボタニカルハニー』。
そして三つ目は、ミステリアスな魅力を持つ『ホワイトムスクサボン』。
どれもこれも、その名前を聞くだけで、バスルームいっぱいに心地よい香りが広がるような気がする。
これらの素晴らしい名前を持つ液体が、あの美しい白いボトルに収まるのだ。想像するだけで、バスタイムが格別な時間になる気がした。ルンルンとした気分で、彼はそれぞれのパックを開封し、白いボトルに丁寧に注ぎ入れていった。ボトルA、ボトルB、ボトルC。どのボトルにどれを入れたか…その時は、全く気にも留めなかった。ただただ、白いボトルが液体で満たされ、三つ並んだ時の美しい光景に心を奪われていたのだ。
「完成だ…!」
詰め替えが終わり、三つの白いボトルが棚に並んだ。光を受けてほんのり透ける乳白色が美しい。これまでのカラフルなボトルたちが並んでいた頃とは大違いだ。まさに生まれ変わったような空間に、悠斗は頬を緩めた。
その日の夜。一日の探偵業(と見せかけた平凡な仕事)で疲れた悠斗は、バスルームの扉を開けた。癒しのバスタイムの始まりだ。軽く予洗いをして、さあシャンプーを…と、白いボトルに手を伸ばそうとしたその時だ。彼の視線は、棚に並んだ三つの白いボトルを捉えたまま、固まった。
「…え?」
どれがシャンプーだ? 朝のぼんやりした頭では、詰め替え作業の記憶がまるで思い出せない。ボトルは皆同じ顔をしている。まるで、アリバイを揃えた三人の容疑者のようだ。
ボトルと中身の対応関係が、頭から消えている。だが、通常、バスルームのボトルはシャンプー、リンス、ボディソープの順だ。きっとそうに違いない!
「よし、じゃあ向かって右端がシャンプー、真ん中がリンス、左端がボディソープ。これで間違いない!」
彼は向かって右端の白いボトルに手を伸ばした。しかし、そこでふと立ち止まる。
「いや待て…ホームズなら、先入観は捨てるはずだ。」
彼の脳内で、探偵モードが発動する。もしかしたら、センターのボトルこそが「リーダー」であるシャンプーなのかもしれない。左右をリンスとボディソープが固める布陣が…いや、リンスーはシャンプーの後輩ポジだが、ボディソープは孤高の存在だ。ならば、これをセンターに、サイドを同じ系統で固めたほうがシンメトリーなバランスを…
思考は堂々巡りだ。外見上の特徴はゼロ。見た目だけでは、この「白いボトル偽装事件」の真実にはたどり着けない。
残る手がかりは、ただ一つ。中身の「香り」だ!
悠斗は意を決し、右端のボトルを手に取った。蓋を開け、鼻を近づける。これが『アロマフローラルシャンプー』のはずだ。
「む、これは…」
「漂ってきたのは、期待した優雅な花の香り…ではなく、ぼんやりとした石鹸のような、『言われてみればフローラル…?』という曖昧な香りだった。」
「アロマフローラル?これが?一体何処のアロマで、何のフローラルなんだよ!もっとこう、具体的に『バラの香り』とか『ラベンダーの香り』とか、分かりやすくしてくれ。名前だけやたらと気取りやがって!」
悠斗の内心で、オシャレな名前にムカついてきていた。次に真ん中のボトルだ。
蓋を開け、鼻を近づける。
「うーん…」
わからない。またしても曖昧だ。ほんのり甘いような、もしこれが『アロマフローラル』と言われたら信じるだろう。
どれも「言われてみれば」程度で、断定できない。
「メープルシロップとかイチゴジャムとか、子供でも分かる簡単な名前にしてくれ!何がボタニカルハニーだ!」
悠斗の怒りは頂点に達しつつある。
最後に左端のボトル。『ホワイトムスクサボン』。その字面をみた瞬間に呆れてしまった。
「なんかの呪文か?これに関してはそもそも単語の意味が分からない。なんだムスクって、なんだサボンって。」
「かっこつけるのもいいかんげんにしろー!」
悠斗はバスルームに響き渡る声で絶叫した。三つのボトル、三つの香り。それぞれに与えられた華やかな名前とは裏腹に、実際に漂ってくる香りは、どれもこれも信じられないほど曖昧で、「言われてみれば、そうかもしれない」程度の、頼りない「証拠」にしかならなかった。アロマフローラル、ボタニカルハニー…ホワイトムスクサボン、彼らはバスルームの密室で、その正体を巧みに隠蔽しているのだ。
「なんてことだ…!見た目もダメ、記憶も曖昧、そして香りもこのザマか…!白いボトルめ…!私のスマートな生活を邪魔する気か…!」
悠斗は三つの白いボトルを睨みつけた。
彼の視線が、バスルームの外、脱衣所のゴミ箱に向けられた。そうだ…詰め替えパックのゴミだ!
悠斗は素早くゴミ箱に駆け寄り、捨てたはずの詰め替えパックを漁り出した。パックには、それぞれの商品の名前がしっかりと印字されている!
「これだ…!決定的な証拠は、ゴミ箱にあったんだ!」どうにか判別に成功したが、このままではまた悲劇が起こる。悠斗は意を決した。
シャワーを浴び終え、悠斗は脱衣所で油性ペンを握りしめた。このままじゃ、またやられる…!
バスルームに戻り、乳白色のボトルを手に取る。ミニマルな曲線が、まるで嘲笑っていた。
「もう騙されないぞ!」
彼はペンを走らせた。勢いよく、こう書いた。
『花』
『草』
そして、最後に…『ナゾ』!
元の洒落た名前とは似ても似つかない、あまりにもシンプルで、そしてどこか腹いせ気味な文字だ。しかし、これで彼のバスルームから「偽装犯たち」は根絶される。次からは、迷うことなどないだろう。
油性ペンで書かれた無骨な文字と、ボトル本来のミニマルなデザインのギャップは凄まじかったが、悠斗の心には妙な安堵感が広がった。
「ふっ…これで解決だ…」
彼はボトルを棚に戻し、その背を向けた。彼の「スマートに立ち回る」ための道のりは、時に回り道をすることもあるようだが、それでも彼は一歩ずつ進んでいる。そして、彼のバスルームには、名ばかりの「アロマフローラル」でも「ボタニカルハニー」でも「ホワイトムスクサボン」でもない、「花」「草」「ナゾ」と書かれた、正直な白いボトルたちが並ぶことになった。