狩りの時間が始まる。
男はゆっくりと立ち上がり、夜空を仰ぐ。
男を見下ろすのは、白チーズのような満月。
その仄かな光が、煉瓦作りの家々を、石畳の通りを、静かに照らしつける。
青ざめた月光の中、生温かい春風に正面から吹き付けられ、男の纏った長い外套の裾がはためく。
美しい夜だ。
寝静まった人々の息遣いを微かに感じながら、男は思った。
もっとも、これからクズの流す血に赤く汚れることになるのだが。
歪んだ、半月のような笑みが男の口元に浮かぶ。
それは何の感情も宿らぬ、虚ろな微笑み。
そして、男は眼前にそびえる大きな館を凝視する。
それはこの町で一番の金持ちだという、宝石商人の館だ。遠方から取り寄せたと思しき、黒曜石作りの壮麗な玄関を見上げながら、男は確信する。
やはり、やつはここを訪れたことがある。
並の人間では、決して感知することはできないが、肉が腐り、饐えたような香りが館の中から漂ってくる。
それは異界の残り香だった。
「さて」
ベルトに吊り下げた得物に手を触れ、男は低く呟く。
「今宵も狂い咲くとしようか……」
「も、申し訳ございません、旦那さま!」
部屋に招き入れられるなり、小間使いの娘は勢いよく、頭を下げる。
机の上に置かれた、小さなランプの明かりが娘の今にも泣き出しそうな、青ざめた顔を照らしつける。
「わ、割ってしまったお皿は必ず、弁償いたします。ですから、どうか……」
どうやら、娘は、昼間の失態を口実に折檻でも受けるのかと怯えているようだった。
わざわざ、こんな真夜中に?
それはそれで面白いかもしれん。
ベッドに寝そべったまま、高価な絹のガウンに包んだ脂肪を揺らしながら、グルブは喉の奥で小さく笑った。それから、じっとりとした目つきで、深くうつむき、小刻みに震えている娘の全身を眺め回す。舐めるように、じっくりと。
幼く、こじんまりとした顔立ち。触れれば折れてしまいそうな、か細い手足。
ほっそりとした華奢な体つきと小ぶりな乳房。そして、食い付き甲斐のありそうな、白く柔らかなうなじ。
ふむ。なかなか、よろしい。
微かに漂う娘の甘い体臭に鼻孔をひくつかせ、グルブは目を細めた。
この前、下町から連れてきた男の子も悪くはなかった。だが、育ち盛りの年頃のせいか、少々、固かった。
どうせなら、女の子のほうがいい。
器量は十人並みと言った娘だが、まあ、贅沢は言うまい。
そんなことを考えながらも、口の中に生唾が溜まってくる。
全身が熱くなるのを感じて、グルブは分厚い唇を舐めた。
「あ、あの、旦那様……」
主人が黙っていることに不安を感じたのか、小間使いの娘が涙声で言った。
「どうか、暇を出すことだけはお許しください。今、里に返されたら実家の父にどんな目に合わされるかわかりません」
「そんな心配をしていたのか」
両手を胸の前で組み合わせ、哀願する娘にグルブは微笑みかける。
今すぐにでも娘に飛びかかってゆきたいと言う、欲情をどうにか抑え込みながら。
「たかが皿の一枚や二枚。また、買えばよい。金なら腐るほどあるからな。だから、お前も下らないことで気をもむのはおよし」
「えっ、でも、……パーセルさんが」
驚いたような娘の言葉に、グルブは首を振った。
「この館の使用人をどうするかを決めるのは、このワシだ。執事長ではない。……お前を呼んだのは、ちょっとした頼み事があるからだ」
「頼み事……?」
「まあ、その前に――」
ベッドの脇に置かれた机の上に載せられた陶器の皿をグルブは指差す。
そこには色とりどりの宝石のような砂糖菓子が山のように盛られていた。
「お前は甘いものは嫌いかね?」
グルブの言葉に目を丸くする娘。
てっきり、仕置きを受け、館から放り出されると思っていたのだろう。
しかし、館の主人は叱責するどころか、貧しい村の出身の娘には、年に一度も口にできないような、高価な菓子をお食べと勧めてくれている。
当然のことながら、娘はすっかり困惑していた。
困惑しながらも、ゴクッと喉を鳴らす。
少し躊躇った後――、娘は恐る恐る、手を皿に伸ばす。
そのか細い手首をグルブは、むんず、と攫み取っていた。
「ひっ!?」
怯えた悲鳴をあげ、顔を強張らせる娘。
「だ、旦那様? い、一体、何を……!?」
「ウム。お前に頼みたいことというのはだな」
尻込みし、逃げ出そうとする娘の小柄な身体をグルブはベッドに引き寄せる。
早鐘のように打ち鳴る、娘の鼓動を聞いたような気がしてグルブの体内に熱いものが込み上げてくる。
「ワシの健康の問題だ」
「……えっ?」
正面からグルブに顔を覗き込まれ、娘はかたかたと震え始める。
まるで罠にかかったウサギのようだな、とグルブは思った。
「ワシはこう見えても生まれつき心臓が悪くてな。年をとってからは更に悪くなった。金に物をいわせて、いろいろな薬を飲んではみたが一向によくはならなん」
優しく囁きながら、グルブは娘の首筋をゆっくりと片手で撫でる。
恐怖に耐えきれなくなったのか、とうとう、声をあげて泣き始める娘。その幼い泣き顔に嗜虐心が極限まで高まってゆくのを感じながら、グルブは続ける。
「そこで、ある御方と取引したのよ。その方の御蔭で、今はちょっとやそっとでは壊れない頑丈な身体を手に入れることができた。……少しばかり、他人とは違う体質になっちまったがな」
グルブの言葉が終らないうちだった。
全身の骨がボキボキと軋んだ音を立てて――、グルブの身におぞましい変化が生じる。
ゆっくりと後ろに盛り上がり、歪な形に変わってゆくグルブの頭部。
ビリビリとガウンが引き裂かれ、その中から、冗談のように膨れ上がった肉体が露わになる。
不可視の手に引きずり出されるかのように、前に長く伸びる、鼻と顎骨。
年老いた脆弱な歯がポロポロと抜け落ち、代わりにカミソリのような牙が歯茎から血を泡立たせながら生え伸びてくる。
そして、針金のような剛毛が膨れ上がった身体を包み込む。
「……健康を守るためには、若い女や子どもの血肉が欠かせぬのだよ」
だらり、と長い舌を胸元まで垂らしながらグルブは笑った。
精一杯、大きく見開かれる娘の瞳。
涙に濡れたその瞳には、もはや、恐怖はない。ありとあらゆる感情が失われていた。
目の前の出来事が理解を超えているのだろう。熱に浮かされ、幻にとり憑かれた者のように、小首を傾げてみせる娘。
「なぁに、そう悪い話でもなかろうて」
そんな娘に向かって、グルブは房のついた長い尻尾を得意げに振る。
「今のワシは不死身よ。この先、どんな病にも殺されることはない。お前もワシの一部になれば、ワシとともに永遠に生きられるという寸法よ」
ぺたん、と力なくその場に両膝を落とす娘。それから、呆けたように口をポカンと開き、変わり果てたグルブの姿をぼんやりと見上げる。
なんだ。もう、壊れてしまったのか。
獲物が全く抵抗しないというのも味気ないモノだな。
「まあ、いい……」
下顎から滴り落ちる、黄色いヨダレを鉤爪の生えた手で拭いながらグルブはほくそ笑む。
もはや、人間ではない、醜い獣の相で。
「お前はいい子だ。だから、できるだけ、ゆっくり味わって食ってやろう」
とりあえず、味見といくか。
娘の腕を捥ぎ取ろうと、グルブがその手に力を込めかけた時だった。
「……ッ!?」
異様な鬼気に背中を打ちすえられ――、唸り声をあげながら、グルブは振り返った。
部屋の戸口の前で、ゆらり、と動く影が見えた。それは、どんな夜の闇よりも濃い、漆黒の塊だった。
「悪いが、食事はお預けとさせてもらおう」
聞こえてきたのは、静かな、だが、押し殺すような男の低い声。
冷たいモノが背筋を走り、巨体を強張らせるグルブ。
そして、自分が猛禽に睨まれた野鼠のように恐怖を覚えていることを悟る。
たった今、グルブ自身が怯えさせた娘のように。
「……未来永劫、な」
その言葉と同時――、鋭い輝きが影から撃ち放たれた。
それは一直線に飛び、グルブの剛毛に覆われた膝に深々と突き刺さる。たちまちのうちにドス黒い血が溢れ、ベッドのシーツを汚す。
「な、何だ? これは……!?」
膝から全身を駆け巡る、焼けつくような激痛。
激痛に身悶えながら、グルブは混乱していた。
ワシは不死身になったはずだ。
あの時、あの御方は、ワシに約束してくださった。
人を喰らい続ける限り、お前は、たとえ、獅子の牙にかかろうとも傷一つ負うことはないだろう、と。
なのに、なぜだ? ドクドクと血が流れて、力が抜けて……、目眩がする。
話が違うではないか。
苦悶に呻きながら、グルブは己の膝に突き刺さった、異物を引き抜こうとする。
その掌に走る、焼けつくような痛み。
ギョッとして確かめたそれは、一本のステッキだった。
長さは大人の腕ほど。その柄頭には、擬人化され、ニヤリと不気味な微笑みを浮かべた太陽が彫刻されている。
そして、太陽は窓から差し込む、月光を反射し、青白い輝きを放っていた。
銀、だ。
ステッキの材質に気がつき、グルブは血の気が引くのを覚えた。
それはこの世で唯一、今のグルブを傷つけることができると警告を受けた物質だった。
そして、思い出したのは、ある男の名前。
それはグルブのように、人であることを捨てた者達の間で囁かれる、恐ろしい名前だった。
闇から闇へと渡り歩く、黒衣の殺戮者の。
「く、来るな! あっちにいけ!」
耳元まで裂けた大きな口から、泡を飛ばしながらグルブは喚く。
「頼む!! 帰ってくれ!! 見逃してくれ!! ワシは、まだっ……!!」
「見苦しいぞ」
冷たい声で黒衣が答える。
「貴様にも分かっていたはずだ。やつと取引きをしたその瞬間、いつかこんな日が来ると」
「や、やめろ!! やめろやめろやめろやめろやめろッ……!!」
音もなく近づいて来る、黒衣の姿にグルブは半狂乱となる。
間もなく訪れるであろう運命に怯え、悲鳴のような咆哮をあげながら、丸太のごとく太い腕を闇雲に振り回す。難なくそれを避け、黒衣はベッドの脇にまで接近。素早く手を伸ばし、グルブの膝を刺し貫いたステッキを引き抜く。
その耐えがたい激痛にグルブは、喚き声をあげる。
「パ、パーセル!! どこだ!? ワシを助けてくれぇ……!!」
「この期に及んで、人間に助けを求めるか」
勢いよく振られたステッキの柄が、ベッドの上でもがく、グルブの鼻面を粉砕。
鼻汁と血が混じり合った、汚らしいモノを撒き散らしながらグルブは、どうっ、と仰向けに倒れる。
「恥を知れ」
陥没した顔を両手で押さえ、悶絶するグルブに冷たく吐き捨てる黒衣。
と、その視線が、ベッドの傍らで力なく蹲っている小間使いの娘に移る。そっと黒衣は娘に近づき、片膝をつきながら、彼女の肩を優しく抱きしめる。
精気を抜き取られた、呆けたような表情を浮かべていた娘が一瞬、全身を強張らせる。
「……案ずるな。もう、何も怖くない。終わったのだ」
娘の耳に口を近づけ、黒衣は唄うように囁きかける。
「今宵、目にしたものは、ただの悪夢だ。朝が来れば、全ては消え失せる」
「…………」
黒衣に手を引かれ、ゆっくりと立ち上がる娘。
相変わらず、その瞳はうつろだったが、蒼白だった顔には血が通い始め、頬には赤味が戻っていた。
「眠るがいい。心をかき乱されることなく」
黒衣の囁きにこっくりとうなずき返す娘。それから、ふらふらと雲の中を歩くような足取りで、血臭漂う主人の部屋を後にしてゆく。
その小さな背中を見送った後、黒衣はゆっくりとグルブを振り返った。
「哀れな我が同胞――、《叫ぶ者》よ」
トン、と黒衣の肩に乗せられたステッキの柄頭から、血が滴り落ち、床で跳ねる。
「止めを刺す前に聞いておきたい。やつは、マクバは今、どこにいる?」