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 酒場は嫌い。ガラの悪い、場末の安酒場は特に。

 春の精霊を思わせる、桃色の華やかな衣装に小柄な身を包んだ少女は、酒の臭気と雲のようにたちこめるタバコの煙に目眩を覚えた。

 肩まで延びたたっぷりとした髪は、明るい松明のような赤毛。店中にたちこめる酒気に負けたのか、まだ、あどけない小さな顔は、紅く染まっている。眠気が覚め切らず、足元がおぼつかない気がして、少女は明るい緑色の瞳を、ぱちぱちとしばたかせた。

 さっさと終わらせちゃおう、こんな茶番。

 そう自分に言い聞かせ、少女はひんやりした手触りのナイフ、――投げ専用の極細のナイフを握り直していた。

「無理すんなって。やめときなよ」

「そうそう、お嬢ちゃんに、大人の遊びは無理だっての」

「ああ。間違って刃物を可愛いアンヨの上にでも落としちまったら大変だぜ?」

 後ろで座っている酔っ払い達が、呂律の回らなくなった口調で好き勝手なことを喚き散らかす。

 彼らの馬鹿にしきった物言いに、少女の可愛らしい頬が僅かに引きつる。

 こっちはこれでも、五つの頃から技を仕込まれて、飯のタネにしてるんだ。あんたらのダーツ遊びと一緒にするんじゃないよ。

 内心、少女は激しく毒づいていた。

 しかし――、

「どうか。どうか、皆様、ご静粛に」

 光り輝くような、とびっきりの笑顔で少女は、酔っ払い達を振り返ってみせる。

それから、おどけた口調で、緊張し、縮みあがるようなジェスチャーを取って見せる。

「そのように囃し立てられては、小心な小娘は縮みあがってしまいます」

 片手をそっと胸に当て、軽く一礼。

「皆様のご懸念はごもっとも。ご心配はありがたく頂戴いたします。だけど、優しく見守って頂ければ、神々がお慈悲を賜り、大成功、とあいなるかもしれませぬ」

「はは、面白いことを言う嬢ちゃんだなぁ、オイ」

「何でもいいや、頑張れよぅ」

「はいな。それでは、とくとご覧あれ」

 小さく手を振り、少女はクルリと酔っ払い達に背を向ける。それから、数メートル離れた『的』に意識を集中させる。

 花のように可愛らしい笑顔を浮かべたまま。

 笑ってごらん、リリス。

 お前の笑顔は最高だし、笑顔は芸人にとって最高の財産だ。

 それが少女の育ての親である、旅芸人一座の座長ジョパンニの口癖だ。

 笑顔は芸人にとって基本中の基本。

 どんな時でも、何があっても、笑顔だけは忘れちゃいけない。

少女は、そう、自分に言い聞かせる。

 例え、昼間の疲れで幌馬車の中で熟睡しているところを、酔っぱらった仲間に叩き起こされ、イヤだと言っているのに無理矢理、酒場に連れ込まれ、地元の酔っ払いに絡まれ、予定外の仕事を、しかも、大して金にならない仕事をする羽目になって、むかっ腹が立っていたとしても、だ。

「さあ、遠慮するな、リリス!」

 店の壁にぴったりと背中を添わせ、頭の上にリンゴを一つ載せた若者が、大声で少女を呼ぶ。ボサボサの前髪を垂らし、痩せた狼のような印象をあたえる、目つきの悪い若者が、泥酔しているのは一目瞭然だった。

「ここのアホどもにお前の磨き上げた技を見せてやれぇっ! さあ、ナイフを投げつけてくれ! この俺、この俺をめがけて! さあ!」

 アホはあんただよ、アブン兄ィ。

 一座の用心棒がへべれけになって、いざって時、どうするのさ?

 そもそも、いつも持ち歩いている、自慢の槍はどこ?

 まさか、賭け事でもやってスッちまったんじゃないだろうね?

 自分をこの酒場に連れてきた張本人を前に、リリスは頭が痛くなるのを覚えた。

 この酔っ払いと来たら、今日、座長から手渡された給金のほとんどをこの安酒場で使い果たしていた。翌朝、神妙な顔で仲間達から金を借りて歩く、彼の姿が目に見えるようだった。

 リリス自身、アブンには銅貨五枚の貸しがある。

 半年待っても、一向に返済される様子がないが。

 全く、少しは兄貴分の自覚を持って欲しい……。

 そう思うと、アブンの間抜け面は、必要以上に腹立たしいものになってくる。

 ああ、もう!! 余計なこと、考えるな。あたし。

 モヤモヤと漂う雑念を頭の隅に追いやり、スッとリリスはナイフの柄を片手に持ち、眼前に構えていた。

 その一瞬、騒がしかった店が、息を飲むかのように静まり返る。

 ゆっくりと目を閉ざしながら、大きく息を吸い込むリリス。

 張りつめた沈黙が流れ――、美しく澄んだ瞳がカッと大きく見開かれる。

 それと同時、少女の両手が流星のような速さで前に突き出される。

シュッと言う、空を切り裂く音。次の瞬間、壁際に立つ、アブンの頭に載ったリンゴには、ナイフが三本、見事に突き刺さっていた。

 おおーっ、と感嘆の声が店のあちこちから聞こえてくる。

 フフン、どんなもんだい。

 得意げな気持ちになり、リリスは笑顔で観衆達を振り返ろうとした。

 しかし、それよりも早く、間に割って入って来たのはアブンだった。

「ほら、見ろ!! 俺の言った通りだろうが!!」

リンゴを高く掲げながら、アブンは叫んだ。

「ナイフが三本、綺麗に並んで突き刺さってやがる!! そんなこと出来ないって言ったヤツは、大人しく金を出せッ!!」

「ちょっと、アブン兄ィ」

思わず、リリスは柳眉が逆立つのを感じた。

「あんた、あたしの芸をネタにこの人達と賭け事をしたの?」

「いいじゃねえか、勝ったんだから」

「何、それ。アブン兄ィ、最悪!!」

「そう言うお前は最高だぜ。お陰で、俺の槍は質屋に流れずにすむ」

 そう言って、ウルッと瞳を潤ませるアブン。

 嫌な予感がして、リリスが身を離そうとするよりも早く、酔っぱらった兄貴分は両腕を大きく開き、ガバッと抱きしめてくる。

「ちょっ、ちょっと!! アブン兄ィ、苦しいってッ……!!」

「ありがとう、リリス!! 俺ァ、お前が大好きだ!! ああ、俺のリリスゥッ!!」

「だ、誰があんたのだよッ!? 酒臭い!! は、離れろーッ!!」

 オイオイと泣きじゃくりながら、リリスの柔らかな頬に顔をこすりつけるアブン。

 必死の形相でそれを押しのけながら、リリスは声を荒らげてしまう。

 そんな二人に呆れたような、困惑するような視線を集中させる酔っ払い達。

「あ、皆々様。ありがとうございます」

 アブンの下顎に拳を突き入れながら、リリスは可愛らしく微笑んで見せた。

「もう、小娘は疲れ果てました。今宵は、どうか、ご勘弁を」


 それから半時ほどの間に、酔っ払い達は一人、また一人と帰ってゆき、気がつけば酒場

には、殆ど、客が残っていなかった。

一仕事終え、リリスはすっかり目が冴えてしまっていた。

このまま馬車に戻っても寝付けられないのは明白だった。

結局、カウンターでちびちび酒を飲みながら先程の騒ぎを見守っていた、座長のジョパンニの隣に腰を落ち着けていた。

「ホント、勘弁して欲しいよ」

 もはや、リリスには不機嫌さを隠す理由はなかった。

片頬を膨らませながら、ブツブツとぼやく。

「おやっさんも一度、ガツンと言ってやって? 甘やかしちゃ本人の為にならないって」

「まあ、そう言ってやるな」

 ヒクッ、としゃっくりを一つ。

 酒の入ったコップを手元に置き、リリスの頭にポンと手を置くジョパンニ。

 トロンとした眼差しを床の上で大の字になって鼾をかいているアブンに向ける。

「確かにアブンはだらしないヤツだけど――、悪いヤツってわけじゃない」

「そりゃそうだけどォ……」

「それに腕っ節もそれなりだしな。万が一って時は、頼りになるだろ?」

 釈然とせず、リリスは唇を尖らせてしまう。

 しかし、ジョパンニの鼻の下に生えたチョビ髭、それと人の良さそうな丸っこい赤ら顔を見ていると、それ以上、不平を口にする気は失せてしまった。

 幼い頃からリリスは、ジョパンニの、このノンビリしたところが大好きだった。

「そ、それはそうと――、」

 何だか気恥ずかしいような、照れくさいような気分になって、リリスは話題を変えることにする。

「次に興業をうつ場所って決まったの?」

「もちろん。明日、朝飯を食ったら出発するつもりだよ」

「ふうん。……どこ?」

「ええっと。ちょっと、待てよ。確かここに地図が」

 フワァと欠伸をしながら、懐をまさぐりながらジョパンニ。

「リリス、この街の北側に森が広がっているのを覚えているかい?」

「うん。昼間、チコリ婆ちゃんが樵から薪を買っていたね」

「森の向こうに、いや、森の中に村があるらしい。……ほら、ここだよ」

 そう言ってジョパンニは、テーブルの上に広げられた地図の赤い印を指さす。

 リリスは最近、字の読み書きを覚え始めたばかりだったが、そこに記された文字は、何とか読み上げることができた。

「翠玉が丘?」

「うん。何だか、綺麗な名前だろ?」

「ここから、どれくらいかかるの?」

「そうだなぁ。一応、街道で繋がっているみたいだから、馬車で半日ってところか」

 そう言ってから、ジョパンニはもう一度、大きな欠伸をする。

 そのまま、バタンとカウンターに突っ伏し、アブンに勝るとも劣らない、大音量の鼾をかき始める。

「もう、おやっさんまで……。風邪引いても知らないよぅ?」

 溜め息混じりにリリスがジョパンニのチョビ髭を突こうとした時だった。

 ガラン、と店の出入り口に取り付けられていた鈴が鳴り響いた。

 また、お客?

 こんな遅くから、飲み始める人もいるんだね……。

 そんなことを考えながら、何気なくリリスは音が聞こえたほうに顔を向けた。

 そして――

「ひッ……!?」

 小さく漏れ出た悲鳴を、慌てて手で押さえて口の中に閉じ込める。

 そこには一羽の鳥がたたずんでいた。

 鋭く伸びた嘴が、店の灯りを反射して、鈍く輝いている。

細い長身を包む、大きな翼はドロリとした闇の色に彩られていた。

その翼の下から、さほど大切でもなさそうにぶら下げられているのは、シルクハットを被った燕尾服姿の木偶人形。

 それは鴉だった。それも人間の大人ほどもある大きな鴉だ。

 リリスは、鴉が店の中を歩くのを見て、背筋が凍るのを感じた。

 鴉はそんなことにはお構いなく、ゆっくりとした歩調でカウンターまでやってくると、身動き一つできないリリスの横に腰を下ろした。

 それから、カウンターの上に、ドンッ、と人形を乱暴に乗せ、

「……一杯、頼む」

 低い声で店の者に声をかける。

それっきり鴉は黙り込み、奥を凝視したまま微動だにしなくなる。

「…………」

「…………」

 言葉にし難い、奇妙な沈黙が店の中に生まれる。

リリスは音を立てぬよう、そっと隣に視線を送ってみる。そして、大きな翼と思ったものが、黒い、高襟の大きな外套だと気がつく。

カァーッと頬が熱くなるのを感じるリリス。

 子どもっぽい、自分の早とちりが恥ずかしかった。

 鴉が酒場に酒を飲みに来るわけない。

 この人は、ただ、鴉の仮装をしているだけだ。

 鴉の顔のように見えた、それは精巧な造形の仮面だった。

 何を素材にこしらえられたのだろうか? 彫刻は細かく、生々しく、作り手の並々ならぬ技術を感じさせた。

 そして、仮面の嘴の下には、明らかに人間のものである口元が露わになっていた。そこから見える肌は日に焼け浅黒かったが、唇はふっくらとして美しい形をしていた。

 この人も同業者……、芸人かな?

 ドキドキと鼓動が高鳴るのを覚えながら、リリスは思った。

 だけど、道化が着る衣装にしちゃ、威圧的で、ちょっと、不気味だけど……。

「オイ、コラ。ネエちゃん」

 不意に甲高い声が、リリスと仮面の男の間から聞こえた。

「さっきから何、見てんだ? 何か、文句でもあるのかよ?」

「えっ?」

 声の主に気がつき、リリスは思わずカウンターから後退りする。

「に、人形が喋ってるの?」

「人形って言うな!! 不愉快だぜ!!」

 はめ込み式の目玉をグルグルと回し、憤慨の念を露わにするのは、カウンターに横たわり、だらしなく手足を投げ出した木偶人形だった。

 目玉と同じく、はめ込み式の木製の下顎が、人形が言葉を紡ぐたびにカタカタと鳴る。

「俺様はな、こう見えても立派な人間様なんだよ!! 今はこんなナリだが、人買いオルタンと言えば、泣く子も黙る大悪党よ……」

 ペラペラ、ペラペラと喋る続ける木偶人形。

 リリスは呆気にとられて、ただ、それを眺める以外、為す術がなかった。

 これって、一体、どんなカラクリ?

 恐る恐る、持ち主である仮面の男に視線を移すが、彼がリリスをからかっているわけではなさそうだった。男は人形を操るどころか、触れてさえいない。

「分かったか、小娘。つまり、この俺様は世界一偉大な、悪党の中の悪党だ」

「……オルタン。少し、黙っていろ」

 店の奥を向いたまま、仮面の男が低く命じる。

「屑籠のような、その口を閉じるがいい。また、面倒を引き起こす前にな」

「うるせえ!! 俺様に指図するんじゃねえ!!」

 目玉をグルグル回転させながら、仮面の男に応じる木偶人形。

「育ちの悪い小娘をしつけてやろうって言う、俺様の優しさを邪魔すんな!!」

 小さくため息をつく仮面の男。

 無言のまま、手刀を振り上げ――、ボコン、と人形の頭を一打ちする。

 グゥ、と潰れた蛙のような呻き声をあげて、人形は喋るのをやめた。

 どうやら、気絶したらしい。

「連れが失礼した」

 相変わらず向こうをむいたまま、仮面の男が無感動に言う。

「この喋るガラクタの素行の悪さには、私も苦労している」

「は、はぁ……」

 無視するわけにもいかず、ぎこちなく笑って頷いてみせるリリス。

 と、

「おい、そこのお前!! お前だよ、お前!!」

 背後から、呂律の回らない、不機嫌な声が聞こえてきた。

「大切な大切なうちの看板娘ちゃんにィ、何、馴れ馴れしく話しかけてんだ? あぁ?」

 案の定、声の主はアブンだった。

 危うく質草に流れるところだった、愛用の槍をしっかり抱きしめている。

「あんまり可愛いから、お持ち帰りしようってか?」

 思わず、リリスはこめかみを押さえてしまう。

 あっち行ってよ、アブン兄ィ……!!

 瞳を瞬かせ、リリスは懸命に合図を送るが、当のアブンは全く気がつかない。

 フラフラと千鳥足で仮面の男に近づき、下から睨め上げるようにして睨みつける。

「そうはさせねーぞ、このヤロー。俺の稲妻のような突きで、その……」

「誤解だ」

 やはり、振り返りもせず、応じる仮面の男。

 心底、どうでもよさそうな口調だった。

「連れの働いた無礼を詫びただけだ。下衆な物言いは控えてもらおう」

「下衆? 俺が下衆だってのか?」

 男の冷淡な言葉が癪に障ったのか、アブンが目をむく。

「俺が下衆なら、てめぇは何だよ? 妙チクリンなナリをしやがってよぅ」

「…………」

 もはや、相手をするのも馬鹿らしいとでも言うように、押し黙る仮面の男。

 と、そこへ男が注文した、酒が運ばれてくる。しかし、仮面の男が手を伸ばすよりも早く、アブンがそれを奪い取っていた。

「ちょ、ちょっと、アブン兄ィ!! やめなよ、そんな……」

 リリスが止める間もなかった。

 くいっ、とアブンはその酒を飲み干し――、コップを仮面の男の足元に投げ付ける。

「ほら、どうした? 相手してやるからかかって来いよ?」

「…………」

「ビビって声もでねーか? 何とか言ってみろよ、この鴉野郎……」

 いい加減にしなよ!!

 そう、声を荒らげ、リリスは立ち上がろうとした。

 と、まるで手品のように――、仮面の男の掌に現れたのは、銀色に輝く一本のステッキ。

 それはクルリと、鮮やかに回転し、アブンの顎を強かに打ちすえる。

ぎゃあ、と悲鳴をあげ、のけ反るアブン。仮面の男の片手がその顔に伸び、むんずと鷲掴みにする。

「いっ、イデデデデデッ!! 顔が潰れるッ!!」

「……今、私を何と呼んだ?」

 ギリギリ、と。

 アブンの顔を片手で締めあげながら、仮面の男が不気味なほど穏やかな声で言った。

 男の指がこめかみに深くめり込み、声もなくアブンは悶絶する。

「私の名は、ヴァロフェス。鴉ではない」

 と、アブンの爪先が浮き上がり、床から離れた。苦しげに、両手両足をジタバタもがかせるが、それでも仮面の男はアブンを放そうとはしない。

「ま、待って!! ちょっと、待って!!」

 顔を青ざめさせ、リリスは男の外套の裾を掴んでいた。

「今のは誰が見たって、アブン兄ィが一方的に悪いんだけど――、でも、許してやってよ。アブン兄ィってすっごく馬鹿なの!!」

 と、仮面の男が振り返った。

そして、初めてリリスと顔をまともに向き合わせる。

 仮面の目孔の奥に輝く、青い瞳に浮かんだのは驚愕の色。

「……イルマ?」

 仮面の男の唇から、震えた声が発せられた。

 アブンを掴み上げていた手から力が抜け落ち、酔いどれの用心棒は、ドサッと床の上に投げ落とされる。

「なぜだ? なぜ、お前がここにいる?」

「えっ? あ、あたし?」

 両肩を掴んで揺さぶられ、リリスはたじろいでいた。

 こんな人、あたしの知り合いにはいないよね……?

 短い沈黙の後――、

「すまない。人違いだ」

 立ち尽くすリリスに仮面の男が低く呟く。その声は、既に元の冷淡さを取り戻していた。

 物憂げな所作でカウンターに銅貨を投げ出すと、仮面の男は、まだ、沈黙したままの木偶人形の片足を掴む。

「……頭に血が昇った。乱暴を働いたことは詫びよう」

 そう告げると、長い外套を翻し、そのまま店を出てゆく。

 リリスは仮面の男が――、ヴァロフェスが去ってゆくのを声もなく見守った。

「畜生。何て馬鹿力だよ」

 カウンターによじ登るようにして、立ち上がるアブン。

 すっかり酔いが吹き飛んでいるのは、その青ざめた顔を見れば明らかだった。

「頭、潰されるかと思ったぜ。リリス、お前は平気か?」

「アブン兄ィ……」

 バカ、とリリスが涙ぐんだ時だった。

 再び、勢いよく、扉が押し開かれ、鎧に身を包んだ男達が酒場に足を踏み込んでくる。

 男達は、街の警備兵だった。

「先程、殺しがあった」

 一人の兵士が前に進み出て、店の中を睨み回しながら言った。

「被害者は宝石商人のグルブ殿だ。賊に撲殺されているのを執事が見つけた。……この店に怪しい者の出入りはなかったか?」


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