森は冷たく、静謐な空気に満たされていた。
ブルッと身震いし、粗末な朝のドレスの上から、リリスはショールを羽織りなおす。
「ねぇ、アブン兄ィってさぁ……」
手頃な平石の上に腰かけながら、リリスはじとっとした眼差しを一座の用心棒に向けた。
「どうして、こんな風に厄介事を引き寄せるのが上手なの?」
「道に迷ったのは俺のせいだってのか?」
リリスを――、否、仲間全員をクタクタに疲弊させた、当の本人が馬車の荷台から大釜を運び出しながら反論する。
「あの地図の通り、俺は馬を進めたんだぜ? きっと、地図を描いたやつが間違えたのさ」
「よく言うよ……」
ふん、と小鼻を鳴らし、リリスは暗くなり始めた周囲の様子に注意を向ける。
野営の準備を急ぐ旅芸人達を取り囲むのは、巨人のような大樹の群れ。
太く頑丈そうな樹枝には、青々とした葉が茂り、その隙間から差し込む、夕暮れ時の木漏れ日は、二台並べて止めてある一座の幌馬車や、その傍らを流れる小川を鮮やかな赤で照らしつけていた。
川の流れは緩やかで、下流まではまだ、距離があるようだった。
そして、リリス達、旅芸人の一座は、その深い森のド真ん中で立ち往生していた。
予定通りならば、今日の昼過ぎには次の目的地に到着しているはずなのに……。
一日中、馬車に揺られた身体が軋むように痛い。
リリスは顔をしかめながら、傍らに置いた籠の中からジャガイモを取り出し、手にしたナイフでサクサク皮を剥き始める。
「んだよ、リリス。そんな不機嫌そうな顔すんなって……」
「知らなーい」
気まずそうにアブンは眉をひそめるが、リリスはプイッとそっぽを向く。
「アブン兄ィ、口ばっかり達者なんだもん。何が、森のことなら俺に任せろ、だよ」
「おいおい、リリス。今更、何、言ってんだ?」
赤々と燃える、焚火に薪をくべながら口を挟んできたのは怪力男、グレコー。
その芸名から連想される通り、グレコーは熊のような大男で、隆々たる筋肉の持ち主である。
「グレコー兄さん……」
「そいつはな、舌先三寸で生きているような男だぜ?」
そう言ってグレコーは、両手に握りしめた木薪を数本、無造作にへし折って見せる。
「で、いつも俺達がワリを喰らわされるんだ」
小さく折れた木片を手にとり、アブン目がけ、投げつけるグレコー。
狙い違わず、木片はアブンの後ろ頭に命中する。
「いってえなっ!!」
当然のように激昂するアブン。
「二日酔いに苦しみながらも働く健気な俺に……、何、しやがるんだッ!?」
「二日酔い? へっ、そりゃ自業自得でショが」
鼻を鳴らしたのは、リリスの真正面に腰をおろしていた火吹き男のザブ。
干からびた猿のような、ザブの醜い顔には嫌味たっぷりな微笑みが浮かぶ。
「そもそも、お前さんは年がら年中、二日酔いでショが」
「好き勝手言ってくれるじゃねぇか」
仲間達から容赦のない言葉を畳みかけられ、アブンはギリギリと歯ぎしりする。
「お前ら、ずっと、俺とおやっさんに御者をやらせていたくせに!! 休んでたやつらが偉そうなこと抜かしてんじゃねえ!!」
「何だぁ、アブン。てめぇ、開き直ろうってのか?」
「うるせぇよ。文句があるなら男らしく拳で来い!! 拳で!!」
上等だ、と鼻息を荒らげながら立ち上がるグレコー。
ザブもニヤニヤ意地悪にほくそ笑みながら、その背後に立つ。
「お、おい。二対一は卑怯だろ……」
「さあてね。謝るなら今のうちでショ、アブンちゃん」
「そうだ。今ならビンタ一発で許してやる」
睨み合いながらジリジリと距離を詰める三人の男。
「もー、やめてよぅ。喧嘩なんて……」
いつも通りの展開に、ムダと知りつつも、一応、リリスは口を挟んでおく。
全く、落ち着いて夕食の準備もできやしない。
罵り合い、小突き合う三人の男達を眺めながら、リリスは小さく溜め息をつく。
そう言えば――、ジャガイモの皮を剥く手をふと止め、リリスは考え込む。
あの後、あの人はどうなったんだろう?
言葉を話す木偶人形を携え、深夜の酒場に現れた、仮面の男。
鴉を模した不気味な仮面をかぶった、その男は確か、ヴァロフェスと名乗った。
喧嘩に負けた、腹癒せだろうか。あろうことか、アブンは街の金持ちを殺した賊はあの鴉野郎に違いない、と街の兵士に訴え出たのだ。
ひょっとしたら、捕まっちゃったのかもしれないな。
あんな格好をしていたら、誰だって怪しく思っちゃうもの。
もう一度、リリスが溜め息をついた時だった。
場所の中から顔を出したのはジョパンニだった。心なしか、青ざめた顔で周囲をキョロキョロと見回す。
「あ、おやっさん! 何とかして下さいよッ!」
取っ組みあっていたグレコーとザブを突き飛ばし、泣き付くような口調でアブンが言った。
「こいつら、訳の分かんねー因縁つけてきやがるんです。鬱陶しいったらねぇや」
「あぁ!? そりゃ、こっちの台詞だ!!」
臆面もなく被害者を装うアブンに、油を注がれた火のように激高するグレコー。
「大体、何かも、全部、てめえが悪いんだろうが!!」
「何だと? 人が大人しく頭を下げてりゃ、調子に乗りやがって!!」
「下げてないじゃん、頭……」
どちらの肩を持つつもりもリリスにはなかったが、取り敢えず、アブンには、そう、ツッコミを入れておく。
「悪いが後にしてくれんか」
ギャーギャー言い争う男達をジョパンニが制した。
いつもなら双方の言い分を聞き、公平に喧嘩の仲裁をしてくれる座長の、珍しく苛立ちを感じさせる声にアブン達が動きを止める。
「どうしたの、おやっさん」
胸騒ぎを覚え、リリスは尋ねる。
「何かあったの?」
「ああ、リリス。……お前達も。タックを見なかったか?」
「タック?」
思わず、リリスはアブン達と顔を見合わせていた。
タックとは一座の洗濯役、チコリ婆ちゃんの孫で、今年、六歳になる男の子だ。
赤ん坊の頃から、実の弟のように可愛がり、面倒を見ているリリスには、よく、懐いてくれている。
「今日は、ずっとチコリ婆ちゃんと一緒に馬車で寝ていたんじゃないの?」
「それが――、いないんだ」
頷くジョパンニの顔色は、蒼白だった。
「婆ちゃんもたった今、気が付いたらしいんだが……」
と、森のいずこからか、大きな鳥の羽ばたく音が聞こえた。
続いて、耳にした者に呪いをかけるかのような、長く陰鬱な獣の遠吠え。
「……ったく、世話が焼けるな」
舌打ちし、グレコーとザブを振り返るアブン。
「一時休戦だ、てめーら。武器になりそうなものを適当に選んで来い。アホ餓鬼を探しに行くぞ」