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 夜の闇は速やかに、森を黒一色に染め上げてゆく。

 四方を囲む木々からは、得体のしれない野鳥の鳴き声が絶えず聞こえ、腐った落ち葉が山と積まれた地面の上をすばしっこいモノどもが盛んに行き交う。

 草叢から光るのは、奇妙に人間じみた、獣達の瞳だ。

 その、闇に閉ざされた空間をランプを片手に進む人影があった。

 時折、風を受け、微かに揺れるランプの光が、持ち主の姿を照らし出す。

 それは狂気に憑かれた画家の描く夢魔を思わせる異形だった。

 もし、今、彼に出くわす者があったとすれば、どんなに図太い神経の持ち主でも己の正気を疑わずにはいられまい。

 不吉な鳥の仮面を被った、黒衣の男が一人。

漆黒の外套を翻させ、草叢をかき分け、いばらを踏み越え、道なき道を音もなく歩き続けている。

 と、仮面の男が手にしたランプの小さな炎が、ジッと音を立てて弱々しく揺れる。

 男が立ち止った、次の瞬間、炎はパッと大きく燃え盛り――、消えた。

 同時に、周囲から鼻を刺すような異臭が微かに漂ってくる。

「な、なあ、ヴァロフェス」

 仮面の男の外套の下から、恐怖に竦む声が聞こえる。

 カタカタと木材を打ち合わせるような、奇妙な音も。

「これってやばい雰囲気じゃねえか? すっかり、取り囲まれてるって言うか……」

「…………」

 仮面の男は答えない。

 代わりに口元に浮かぶのは、引き裂かれたかのような凄惨な微笑み。

「は、早く逃げねえと俺達、やばいって」

「俺達ではない。私、だ」

 震える声に仮面の男は冷たく言い放つ。

「やつらが狙うのは私だけだ。お前など、最初からやつらの眼中にはない」

 そう言ってから、取ってつけたように、こう付け加える。

「運が良かった、と神々に感謝することだな」

「運が良かった、だと!? 冗談も休み休み言いやがれ!!」

 怒りに震えながら声が続ける。

「俺様の運なんざ、とっくの昔に尽き果てているよ!! 初めてテメェと出会った、あの日からな!! ったく、ムカつくったらありゃしねぇ!!」

 ギャーギャー騒ぎ始めた声を無視して、懐の火打石を弄る仮面の男。

 ややあって――、再び、ランプに火が灯されていた。

「……何にしても、こんな時、不用意にうろつくのは命取りだぜ」

 その明りに心を解きほぐされたのか、少し、落ち着きを取り戻す声。

「悪いことはいわねぇ。さっき見つけた、あばら屋に戻ろうぜ? せめて、夜が明けるまではさ。……おい、聞いてるのかよ?」

「黙れ」

 食い下がる声に、仮面の男は短く命じる。

 鴉をかたどった仮面の目孔から見える、切れの長い瞳が細められた。

「な、何だよ……?」

 声を無視して、少し離れた木陰にランプを翳す仮面の男。

「ようやく、現れたか」

 そこには痩せこけ、ボロを纏った男が一人、膝を抱えて蹲っていた。

 いや、痩せこけた、というのは正確ではない。

 男の身体は骨と皮だけであり、しかも、腐っていた。

耳穴や落ち窪んだ眼孔の周囲を黒光りする殻を持った地虫が這いずり回っている。

腹は、無惨に引き裂かれ、そこに納まっていたはずの物は誰かに持っていかれたのか、味気ない空洞となっていた。

「お助けを、旅の方」

 ヨロヨロと立ち上がりながら、男はかすれた声で言った。

「森に迷ってしまったのです。もう、何日も何日も食べ物を口にしていません」

 土の上に、ポトポトと転がり落ちる、太った、数匹の地虫。

 よろめきながら、男は腕を前に差し伸べる。皮膚が腐り果て、骨が露わになった両手の指先が、化鳥の鉤爪のように、鋭く、長く伸びる。

「血と肉を」

 憐みを誘うような、悲しげな声で腐り果てた男が言った。

「どうか、あなた様の血と肉をわたくしめに分けてくださいませ……」

「こ、こりゃ、ひでえ!」

仮面の男の外套の下から悲鳴があがった。

「動く死体だ。最悪だな……」

「死体を弄ぶのは、やつらの――、《叫ぶ者》の大好きなお遊びの一つだ」

 鼻を鳴らし、仮面の男は足元にランプを置く。

 と――、突然、腐り果てた男が動いた。鋭い爪を振りかざし、掴みかかってくる。

素早くその爪を避け、仮面の男はベルトから銀のステッキを抜き放つ。そして、弧を描くような動きで、腐り果てた男の頭を殴りつける。

腐敗が進み、薄皮一枚で繋がっていた男の首は、その一撃で裂けてしまう。もげた頭は、ゲラゲラ甲高い笑い声を残し、草叢の中に転がっていった。

「下らん」

 首を失った、男の胴体を蹴り倒し、仮面の男は肩をすくめる。

「この程度の魔法しか使えぬのなら、今回もたいした相手ではないな」

 と、その時だった。

 地面に降り積もっていた落ち葉が波のようにザワザワと脈打ち、その中から、幾つもの影が姿を現す。

 ゲラゲラ、ゲラゲラ……!!

 そいつらは威嚇するような、刺々しい笑い声を一斉に発していた。

「お、おい。敵さん、数で来るタイプだぞ!?」

「見れば分かる」

 素っ気なく答えながらも、仮面の男は己の体内に相反する、二つの感情が充満してゆくのを感じていた。熱く激しい暴力衝動と冷たい殺意が。

 ガチガチ、ガチガチ……。

 ジリジリと仮面の男との距離を詰めながら、そいつらは牙を打ち鳴らす。

 ひゅう、とおどけたように口笛を吹く者もいた。

「オルタン。話がある」

「話!? そんなの後にしろ!! 状況、分かってんのかよ、テメー!?」

「お前を連れては戦い辛い」

「あぁ? 何だと?」

「ここで待っているがいい。……気が向けば、後で拾いに来てやる」

「お、おい、こら! ちょっと待て!! そんな、無体なことすんなって……!!」

 抗議の声を無視して、仮面の男は外套の下、片手にぶら下げていた木偶人形を背後の草叢に投げ捨てる。

「さて……、邪魔者は消えた」

 銀のステッキを正眼に構え、ククッ、と喉の奥で嗤ってみせる。

「お互い、心行くまで楽しもうではないか」

 その言葉に同意するかのように、暗闇の中で、粘液の滴る幾つもの牙が煌めく。

「ヴァロフェス!! てめぇ、後で覚えてろよ!? この人でなしの悪党!!」

 けたたましい罵声を背中に浴びながら、仮面の男――、ヴァロフェスは地面を蹴り、跳躍する。


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