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 突然、森の奥から、血も凍えるような絶叫が響いた。

 思わず、リリスは小さく華奢な肩をビクンッと跳ね上がらせてしまう。

 驚きのあまり、口から飛び出すかと思えた心臓が早鐘のように打ち鳴り、背中にどっと冷や汗が溢れてくる。

 すぐにでも、馬車の中に飛び込みたかったが、足が竦んでしまい、動けなかった。

しばらくの間、息をすることも忘れ、リリスは夜の闇を凝視し続けた。

「お、狼が獲物でも仕留めたんだよね? うん、きっとそうだ」

 懸命にリリスは自分にそう言い聞かせる。

 自分でも可笑しいほど、その声は震えていた。

「こっちには焚火だってあるんだし、大丈夫。怖くない……」

 胸に抱きしめた酒壜の中身がチャプチャプと揺れた。

 それは、たった今、アブンの荷物から失敬してきた物だ。勿論、リリスが自分で飲もうというわけではない。孫のタックが突然、姿を消してしまい、心労のあまり、倒れてしまったチコリ婆ちゃんの気付けのためだ。

 小さく息をつき、心細さを紛らわすかのようにリリスは頭上を仰ぐ。

 天を覆い隠すかのように鬱蒼と茂った木々の隙間から、ぼんやりとした月光が差し込んでいた。

 一座の男達――、ジョパンニ、アブン、グレコー、ザブの四人が松明やナイフを手に捜索にでかけてから、随分と時間が経っている。

 どうか、お願いです。

 タックも、みんなも、無事で帰ってきますように。

 月に向かってリリスが祈りを捧げた時だった。

 ポン、と背中に投げ付けられたのは豆粒ほどの小石。

「きゃっ!?」

 甲高い悲鳴をあげ、弾かれるようにして、後ろを振り返る。

その弾みで手が滑り、抱えていた酒壜を地面に落とし、割ってしまう。

 と――、

「え? タック……?」

 目尻に涙を浮かべながら、リリスは首を傾げていた。

 真っ暗な藪の中に小さな男の子が一人、佇んでいるのが認められた。自分の背丈よりも高い雑草に埋もれながら、何が嬉しいのか、男の子はクスクスと笑った。

 柔らかそうな金髪の巻き毛。宝石のような青い瞳。まだ、赤ちゃんのころの面影を残す、可愛らしい顔立ち。

 男の子は間違いなく、リリスの弟分である、タックだった。

 しばらくの間、呆然としていたリリスだったが――、

「あんた、一体、何やってんのさ?」

 突然、腹立ちが込み上げてくるのを感じた。

 自然と険しい表情になりながら、タックに向かって歩き始める。

「みんな、死ぬほど心配したんだよ? 一体、何のつもりで――」

 こんなイタズラをするの、とリリスが問いかけるよりも早く、タックの身体は草の中に沈む。そして、ガサガサと音を立てながら、森の奥へと移動してゆく。

「ちょ、ちょっと、タック!? どこ、行くのさ!?」

 予想外な弟分の行動にリリスは動揺してしまう。

 馬車で寝ているチコリ婆ちゃんが心配だったが、このままタックを放っておくわけにもいかなかった。

「ほんとに、もうっ……!!」

 唇をかみしめながらリリスは焚火の中から木切れを一本、拾い上げた。


 おかしい。おかしいよ、こんなの……!!

 得体の知れない恐怖と不安に急き立てられながらも、リリスは松明を片手に、草叢を進み続けるタックの背中を追い続けた。

 しかし、その距離は一向に縮まらない。

 息が上がってしまい、リリスが立ち止るとタックも立ち止り、振り返ってクスクスと楽しげに笑いかけてくる。そして、リリスが動き出そうとすると、タックもまた、再び、歩き始めるのだった。

 タックって、こんな意地悪な子だっけ?

 それにこんな真っ暗な森の中、あの子はどうしてこんなに早く歩けるんだろう?

「タック!!」

 堪え切れず、リリスは声を荒らげる。

「悪ふざけはやめなよッ!! いい加減にしないと、姉ちゃん、怒るよッ……!?」

 姉貴分として威厳を発揮するつもりだったが、それは殆ど悲鳴だった。

 と――、

「…………」

 リリスの声に反応してか、こちらに背を向けたまま、ピタッと動きを止めるタック。

 しめたっ!!

リリスは素早く歩み寄り、その小さな背中を後ろからガバッと抱きすくめる。

「この、いたずら坊主!! もう、逃げられないんだからねッ!!」

 息を弾ませながらも会心の笑みを浮かべるリリス。

 肩を掴んで、クルリ、と自分のほうを振り向かせる。

「馬車に戻ったら、みんなから拳骨でも」

 もらうんだね、と言いかけ――、リリスは言葉を失っていた。

 振り返った男の子の顔には、何もなかった。

 パッチリとした青い目や可愛らしい鼻も、小さな口も。

当然、あるはずのものが。

 そこにはツルリとした卵のような、肌色の平面があるだけだった。

「……えっ、えっ? なに?」

 頭の中が真っ白になるのを感じながら、ヨロッと後ずさりしてしまうリリス。

 理性が、感情が、目の前にたたずむモノの存在に追いつかない。

「くけっ」

 呆然としているリリスに向かって、タックが、いや、顔のない子どもが破裂音のような声で笑いかける。口がないにもかかわらず。

 そして、消えた。

何の段階も経ず、唐突に。

 その場には、松明を手にしたリリスだけがポツンと取り残されていた。

「ちょっ、ちょっと待ってよ……」

 掠れた声でそう呟きながら、リリスはその場にヘナヘナと座り込んでしまう。

 座り込んでいる場合じゃないでしょ、リリス。

 何が何だかよく分からないけど、これってすっごくヤバい感じじゃん……。

 頭の中で、冷静な自分がそう囁く声が聞こえた。しかし、足腰に力が入らず、立ち上がろうにも立ち上がられない。

 フッ、と松明の炎が消えた。

 漆黒に塗りつぶされた視界に、ひッ、と短い悲鳴を上げるリリス。

 ガサガサと風に揺られる死霊のような木々に取り囲まれ、自分がどの方角からここに来たのか、リリスには分からなくなっていた。

「…………ッ!!」

 ぎゅっ、と握りしめた拳をリリスは胸元に押し当てる。

 怒涛のように込み上げてきたのは、幼い頃、常に彼女を苛み続けた暗い感情。

 全く汚いガキだよお前は何で生まれて来たんだ雌犬の娘はやっぱり雌犬だな目障りなんだよ目障りいっそこのまま死んじまえばいいのにああ汚い汚い汚いッ……。

「いやっ、やめてッ……!!」

 地の底から響くように聞こえてきた幻聴に悲鳴をあげ、耳を押さえるリリス。

 そんな彼女を嘲笑うかのように、フクロウと思しき野鳥が頭上でけたたましい羽音を立てる。

 怖い。

 全身をカタカタと、小刻みに震わせながら、リリスは嗚咽を漏らしていた。

 怖い、怖いよぅ。

 嫌だ、一人ぼっちは嫌だ。

 お母さん……。

 と、

「――あれ? リリス?」

 突然、背後から呼びかけられ、リリスはハッと顔をあげていた。

 雲の隙間からさす、うっすらとした月明かり。

 それに照らし出されたのは、草叢の中にたたずむ、小さな男の子だった。

「やっぱり、リリスだぁ」

 人懐っこい子犬のような微笑みを浮かべる男の子。

 それから、ふと表情を曇らせ、小さく首を傾げながら言う。

「どうして泣いてるの? ……転んじゃったの?」

「タック!!」

 思わずリリスは、男の子――タックの首っ玉にしがみついていた。

「もう、信じられないッ!! あんた、こんなところで何やってんのさ!?」

「こんな所?」

 リリスの腕の中で、とろんとした眼差しで周囲を見回すタック。

「ここどこ? お婆ちゃんは?」

「あんた、覚えてないの?」

「うん」

 コクン、と頷き、タックは続けた。

「僕、今日はずーっと寝ていたから」

「…………」

 何とものんきな答えにリリスはどう反応すればいいか、分からなかった。

 ふーっ、と大きく息を吐いて自分を落ち着かせ、

「とにかく――」

 タックの柔らかい金髪を優しく撫でてやりながらリリスは言った。

「姉ちゃんと一緒に戻ろう。おやっさんも婆ちゃんも――、皆、心配してるよ?」

「うん……」

 釈然としない表情を浮かべているタックの手をリリスはそっと握りしめる。

 しかし……、どちらに向かって歩くべきか。

 そう思案しかけた時だった。

「……ッ!?」

「あれ?」

 行く手に広がる闇に浮かびあがったのは、煌めく幾つもの瞳。

 低く聞こえてきた唸り声に思わず足を竦ませたリリス。

 そんなリリスにタックが無邪気に問いかける。

「ねえ、リリス。あれって狼? 僕、狼って初めて見るよ」

「シッ、黙ってな……!!」

 そう小声で言って、リリスはタックの腕を取り背中にかばう。

 獣と相対する時、下手に騒いだり、いきなり逃げ出すのは得策ではない。

 ジョパンニは、そう、リリスに教えてくれた。

 まずは相手の出方をうかがって、それから……。

「な? 上手く行っただろ? 上手く行っただろ?」

 口の中にモノを含んだような声で――、獣の一匹が人間の言葉で言った。

「ああ、そうだな。上手くいった上手くいった」

「言ったろ? 魔法を使えば、餓鬼の一人や二人、簡単に誘き寄せるってな」

「ああ、簡単だ簡単だ」

 そいつらは顔を寄せ合い、囁き合う。

「な、何なの? こいつら……」

 しわがれた声でリリスはうめく。

 もはや、恐怖は感じていなかった。

 周囲を取り囲んだ、獣達の奇妙な姿にリリスはあきれ返ってしまう。

「さぁ、早いとこ、食っちまおうぜ」

 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラッ……!!

 狼達は、胸が悪くなるような下卑た笑い声をあげる。

 正確に言えば、獣の胴体に繋げられた、土気色をした人間の顔が。


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