「…………」
水を吸い、すっかり重たくなった外套を引き摺りながら、ヴァロフェスはようやく岸辺にたどり着いた。
鋭い爪と牙によって、粉々に砕かれた小船の木片が足元で漂っている。
呼吸を整え、ヴァロフェスはゆっくりと後ろを振り返った。
湖を覆っていた濃霧は、既に跡形もなく取り払われていた。
鏡のように澄んだ水面に、十体もの小さな人影が浮かび上がっている。
それはブヨブヨにふやけた、子ども達のなれの果てだった。
気にするな。
こんなことは、よくあることだ。
ヴァロフェスは、そう、自分に言い聞かせねばならなかった。
「もう少し、待っているがいい」
村に通じる道を歩きはじめながら、ヴァロフェスは呻く。
「決着が着けば――、お前達は家に帰れる」
森の中をヴァロフェスは走った。
村が近づくごとに強くなる腐臭を感じながら。
なぜだ? なぜ、気がつかなかった?
この村を訪れたその日から、気配は常に感じていたと言うのに。
あの女性――、ルー夫人は、湖の事故で夫と娘を失ったとリリスから聞かされた。
何者かに、何かの代わりとして、湖の底に沈められた子ども達。
彼らは、マクバの魔法によっておぞましき異形、《叫ぶ者》へと変化した。
それは、つまり……。
「……マクバよ。貴様の存在と言うものがようやく理解できた」
走りながらヴァロフェスはそう囁きかける。
今は姿すら見えない、白衣の魔術師に向かって。
「貴様は、自分をありふれた存在だと言ったが――、正にそうだ。私はこの十年の間、様々な土地で貴様の存在を感じ、実際、貴様はそこにいた」
――絶望。
「……それが貴様の真の名だ。違うか、マクバ」
「然り」
楽しげな声がヴァロフェスの耳元で聞こえる。
「それがあなた様のお父上――、《万物の創り手》が最も使役されるシモベの名です。しかし、私にはもう一つの名がある」
「…………」
「それは渇望。たった一つの願いは、全ての人間を闇につき落とす、絶望の鍵であるがゆえに」
詩を読み上げるかのように、朗々としたマクバの声。
ヴァロフェスの口元が自嘲の笑みに歪む。
これが答えか。
十年にも及ぶ、血塗られた旅の……。
「――おっ、ヴァロフェスの旦那!! いいところに来てくれたッ!!」
突然、呼びかけられヴァロフェスはハッと我に帰る。
「悪いけど、手を貸してくれねーかな。こいつら、突いても刺しても死にやしねぇ!!」
アブンだった。
人の顔を持つ狼の胴体に槍の穂先を突き立てたまま、全身を血に染めている。
幸いなことに、それらは全て返り血であるようだった。
と――、ビクビクと四肢をばたつかせ、暴れはじめる狼。
「た、頼むって!! 抑え込むのも、もう、限界だ!!」
得物を抜き放ち、アブンに駆け寄るヴァロフェス。
そして、銀のステッキを大きく振り上げ――、黄ばんだヨダレを撒き散らす狼の顔面を粉々に打ち砕く。
「あ、ありがとよ……」
手の甲で顎を拭いながら、アブンが言った。
「こいつら、いきなり襲って来やがってよ。昨夜の化け物の仲間か?」
「違う。こやつらは、より強い魔力に魅かれて集まった烏合の衆だ」
「いや、こいつらは強い魔力に魅かれて集まっただけだ」
「ふん。でっかいクソにたかる蠅みてーなもんかよ」
「……品のない表現だが、その通りだ」
一呼吸置き、ヴァロフェスは言った。
「そんなことより――、ここで何をしている? 《叫ぶ者》との戦いは、私に任せろと言ったはずだが?」
「言っただろ? いきなりだったんだよ、こいつら。お陰で村の連中や仲間をその辺の建物に逃げ込ませるため、俺が走り回らなきゃならなかったんだよ」
全く、とヴァロフェスは思った。
この男と言い、あのリリスと言う娘といい……。
血は繋がってはいなくとも、似た者兄妹だな、と。
「助かったやつらには、ジッと隠れていろと言っておいたんだがな」
「それは賢明だった」
ステッキにこびりつく血を外套の裾で拭いヴァロフェスは言った。
「こやつら程度の下等な《叫ぶ者》は、その家の主に招かれない限り、そこに入り込むことはできぬ」
「へっ? そーなのかよ?」
アブンが目を丸くした時だった。
一際、身体の大きな狼が草叢から飛び出して来る。
わっ、と声をあげて、それを避けたアブンにヴァロフェスは言った。
「こやつらを相手し続けてもきりがない。魔力の大元を絶たねば」
「つまり、でっかいクソを始末しねぇとどうにもなんねーってことか?」
トホホ、と泣き出しそうな顔で槍を構え直すアブン。
無言のまま、ヴァロフェスはちらりと丘の上を一瞥していた。