目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

「……何だって?」

 噛みつかれ、引き裂かれ、傷だらけになった身体に薬草をもみこんでもらいながら、アブンが言った。

「じゃあ、リリスのやつ、あの奥さんを探しにいったきりだってのか?」

 酒蔵に集められた子ども達やその保護者らが不安げな顔でアブンにうなずいた。

「じゃあ、早く迎えに行ってやらねぇと!!」

「待て」

すぐにでも部屋を飛び出そうとするアブンを制し、ヴァロフェスは言った。

「お前の傷は浅くない。ここで大人しくしているがいい」

「あんただって怪我人じゃねーか」

「私は苦痛を押さえる術を知っている。この程度なら行動に支障はない」

「で、でもよ……」

「お前はここで子ども達を守れ」

 喰い下がるアブンの肩を叩き、ヴァロフェスは言った。

「リリスのことは――、私に任せろ」


 ヴァロフェスは一人、屋敷の中に戻った。

 階上からは凍りつくような邪気が、見えない気流となって渦巻き、吹き下りてきた。

 その発生源を求め、ヴァロフェスは一気に階段を駆け上がる。

 それは、すぐに見つけることができた。

 そこはこの屋敷の主人、エスメリア・ルーの寝室だった。

 この扉の向こうに、打ち倒すべき《叫ぶ者》がいる。

 白衣の魔術師マクバがいる。

深く息を吸い込み――、ヴァロフェスは渾身の力を込め、扉を蹴り開けていた。

「これは……!?」

 そこにあった光景にヴァロフェスは、思わず感嘆の声を漏らす。

 その壮麗な女性の部屋には、奇妙な物体が浮かんでいた。

 それは巨大な水の球だった。

 水草と泥の香りを立ちこませながら、水球は轟々と激しい音を立て、飛沫を部屋中に薪散らかす。

 腐ったような緑色に濁った水球の中には、リリスがいた。

 ゴボゴボと白い泡を吐き、苦しげに手足をもがかせている。

「あっ、やっと来やがった!!」

 水びたしになった床の上でオルタンが声を裏返させる。

「小娘が死ぬぞ!! サッサッと何とかしやがれ!!」

「貴様に言われるまでもないッ!!」

 得物を掴み直し、床を蹴るヴァロフェス。

 疾風の速さで水球に飛び掛かり、鋭い突きを刺し入れる。

 その一刺しが水球を形作る魔力を一瞬にして打ち消していた。

 ザバン、と言う小さな波のような音を立てて――、水球は崩れ、ただの水となって床に流れ落ちる。

 そして、そこに囚われていた赤毛の娘を。

「リリス、しっかりしろ!!」

 床に這いつくばり、水を吐く娘にヴァロフェスは駆け寄る。

「だ、大丈夫……」

 髪を濡らしたまま、無理な微笑みを浮かべるリリス。

「こ、こう見えても、あたし、泳ぐの得意だから……」

 こんなことなんでもない、とリリスは言いたげだった。

 そんな彼女に何か言おうとヴァロフェスが口を開きかけた時、その原因が冷たい殺気を投げ付けてきた。

「……どうしてなの?」

 血の気を失せた唇を震わせて殺気の主――、ルー夫人が問いかけてくる。

「どうして、私の邪魔をするの? 貴方には何の関係もないはずでしょう?」

 口元を歪ませるリリスを手で制し、ヴァロフェスは夫人に向き直る。

「関係は、ある。その娘には、いくつかの貸しと借りがあるからな」

「…………」

「エスメリア・ルー。貴女こそ、なぜ、この娘を手に掛けようとした?」

「後、一人なの」

 ギラギラと輝くまなざしでヴァロフェスを睨み据えるルー夫人。

「後一人ですべてが終わるの。それなのに……」

「やはり、貴女の仕業だったか」

 静かにヴァロフェスは語りかけ始める。

「十人もの子どもの生命と引き換えに貴女は、やつから何を得るつもりだ? 人であることを捨ててまで」

「お、おだまりなさいッ!! この嫌らしい鴉ッ!!」

 悲鳴のような叫び声をあげたルー夫人の横顔には、激しい鬼相が浮かんでいた。

「ああ、愛しいソフィア!! 私は毎日、毎日、神々に祈り続けた!! 私の娘を、ソフィアを返して下さるようにと!! 毎日、毎日!! だけど、何の答もなかった!! 当然だわ!! 神々など、この世界には初めから存在しなかったのだから!! 私に答えて下さったのは、あの方だけ!! あの方は、私に教えて下さった!! 私のソフィアは湖の精霊に気に入られて、連れて行かれてしまったんだと!! だから、取り戻すためには代わりの遊び相手を十一人、用意しなければいけないと!!」

「お、奥様……」

 床に両手両膝を突いたまま、悲しげな声で呼びかけたのはリリスだった。

 その哀れむような、訴えかけるような声にルー夫人の狂気を孕んだ絶叫がピタッと止まった。

 ルー夫人の青ざめた顔に悪夢から目覚めたような表情が浮かぶ。

 しかし、それも一瞬のことだった。

「最後の十一人目にこの娘を選んだ、というわけか」

「その通りよ」

 目を血走らせるルー夫人の口元には、蛇のような笑みが浮かぶ。

「あの方が今、最後の準備をして下さっているわ!! 私とソフィアがこれから暮らしてゆくための世界の扉を開くために」

「……《無の都》か」

 低い唸り声を発するヴァロフェス。

「やつは――、マクバはこの村に、《無の都》を呼び出すつもりなのか?」

「何だって構わないわ!! 娘が帰ってくるなら私はそれだけで……!!」

「それは嘘だ」

 短くヴァロフェスは断じた。

「マクバの言うことは全て嘘だ。やつは人に何も与えない。やつが与える者は苦痛だけだ」

 一瞬の沈黙の後――、

「な、何を馬鹿な。あの方は、崇高な目的を持ってこの世に遣わされた御使い……」

「やつの目的は、この世を呪いで満たすことだ。私や貴女のような者でな」

 絶句するルー夫人。淡々とした口調でヴァロフェスは続けた。

「貴女とて、気付かなかったわけではあるまい」

「や、やめて……」

「一人目の子どもを手に掛けた時――、その子は何と言い残した?」

 ひぃいいい、と絞殺されるような悲鳴を張り上げるルー夫人。

 頭を振り、長い髪を振りかざし、両手で耳を塞ごうとする。

「他の子ども達はどうだ? 湖の底に沈められる寸前、あの子達は何と叫んだ?」

「ああ、やめて!! やめてやめてやめてやめてッ!!」

「そう。貴女の娘と同じだ」

 何の感情も感じさせぬ口調でヴァロフェスは告げる。

 それは冷酷な断罪の言葉だった。

「お母さん助けて、とな」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?