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 ルー夫人の大きく開かれた口から獣の咆哮のような叫び声が迸るのをリリスは聞いた。

 それはリリスが知る、どんな叫び声とも違っていた。

 喚起されたのは、冷たい氷のような鉤爪で魂をかきむしられる様な恐怖感。

 この世の全てから見放され、取り残されてゆくような悲しみと孤独がリリスの全身を走り抜ける。

 と、叫び続けるルー夫人の背中が、ボコッと大きく膨らむ。ドレスの布地が引き裂かれ、そこから剛毛に覆われた、長い脚が伸び出てくる。

「あ、ああ、そんな、奥様……」

 穏やかな微笑みを浮かべていた女性は黒く塗りつぶされ――、代わりにあの巨大な黒蜘蛛がその禍々しい姿を現していた。

「い、嫌ぁ」

 リリスはその場に座り込み、幼子のように泣きじゃくり始める。

「嫌だよぅ、こんなの……」


「さて、そろそろ潮時だな」

 クルリとステッキを回し、静かな声でヴァロフェスは異形の者に語りかける。

 黒蜘蛛の漆黒の剛毛の隙間から輝くのは金色の瞳。

 真一文字に裂けた、分厚い唇からは獰猛な唸り声が漏れ出る。

 そして、槍のように先端を研ぎ澄ませた八本の脚を複雑に蠢かしながら、ヴァロフェスを串刺しにせんと襲い掛かってくる黒蜘蛛。

 と、ヴァロフェスが大きく外套を翻した。

 黒蜘蛛の爪が深々とそれを床に縫い付けたが、そこにヴァロフェスの姿はない。

「貴女は良き妻であり――、良き母親だ」

 音もなく黒蜘蛛の背中に飛び乗るヴァロフェス。

 その手には血に飢えた牙の如き、銀の得物が握りしめられていた。

「せめて、その心が残っているうちに逝け」

 僅かな感情の揺らぎも見せぬ一言とともに打ちこまれる一撃。

 激痛に身悶えし、更なる絶叫を撒き散らす黒蜘蛛。

 その振動を受け、部屋の窓という窓が粉々に砕け散る。

「おのれぇえええっ!! 放せぇ!! 放せぇええええっ!!」

「くっ……」

 絶叫し続けながら黒蜘蛛は激しく身体を揺さぶり、ヴァロフェスを投げ飛ばそうとする。

 歯を食いしばりながら、得物をギリギリと更に深く喰い込ませてゆくヴァロフェス。

 ステッキを通じて、黒蜘蛛の――、ルー夫人の思念が頭の中に入り込んでくる。

 美しく澄みきった、静かな湖。

 その中心で波紋を広げる、転覆した小さな船。

 手足をばたつかせ、泣きじゃくりながら水の中に沈みゆく少女。

 そんな惨劇など素知らぬ顔で湖面を滑ってゆく、小さな水蜘蛛。

 ああ、私がこの蜘蛛だったら今すぐ水の上を走り抜けてあの子の許へあの子を助けにいくことができるのにどうして私は泳ぐこともできない人間なのああ私は母親なのにあの子の母親なのにどうしてこの身体は竦んで動くことができないのああごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。

 そして、背後に現れ、耳元に囁きかける白衣の魔術師。

哀れな女よ。

私はお前の唯一の理解者にして、真の友。

 さあ、願いを口にせよ。

 絶望にその身と魂を任せるのだ……。

「ふざけるな……」

 ビシャビシャと熱いものがヴァロフェスの仮面を濡らし続ける。

「怪物に、《叫ぶ者》に堕ちた母親を喜ぶ子どもなどあるものか」

 と、黒蜘蛛の巨体が大きく縦に揺れる。

 勢い余ってヴァロフェスの身体は宙に投げ出され、激しく壁に叩きつけられる。

 ガハッ!!

 口から吐き出される血反吐。

 全身の傷口が一斉に開くのが感じられた。

「ヴァロフェス!!」

「…………」

 リリスの悲鳴にヴァロフェスは小さく片手を振ってこたえる。

 気にするな。

 こんなことはいつものことだ。

「……殺す。殺す殺す殺す。殺してやる」

 壁際で喘ぐヴァロフェスに向かってジリジリとにじり寄りながら、黒蜘蛛が呻く。

 にゅう、と青白い女の手が伸び、背中に突き刺さった銀のステッキを引き抜くと、それを投げ捨てる。

 カシャン、と乾いた音を立てて床に転がる銀のステッキ。

 落ちた衝撃で留め金が外れ、柄頭が分離。柄の内側に収納されていた長い鎖が投げ出されてしまう。

「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる……」

 ブツブツ、呪詛のように同じ言葉を繰り返す黒蜘蛛。

 背を壁に預け、何とか立ち上がろうとするヴァロフェス。

その頭上に高々と振り上げられる、槍の如き黒蜘蛛の脚。

 と――、

「もう、やめて!」

 悲痛な声をあげ、ヴァロフェスと黒蜘蛛の間にリリスが飛び込んでくる。

 瞳に涙を一杯に貯めた赤毛の少女の姿に、黒蜘蛛がビクッと身を竦ませ、動きを止める。

「もう沢山だよ、奥様。お願いだから元の、優しい奥様に戻って……」

 チラッ、と床に落ちた己の得物を一瞥するヴァロフェス。

 今だ。

 今、この距離でなら確実に仕留めることができる。

 意を決し、歯を食いしばりながらステッキに手を伸ばすヴァロフェス。

 しかし、その指先が飛び出た鎖に触れた瞬間だった。

「――――ッ!!」

 それに黒蜘蛛が気がつき、瞬時にして殺意を全身に漲らせる。

 再び振り上げられた脚の爪先は、リリスの小さな頭に狙いを定めていた。

「させるかッ!!」

 それが振り下ろされるよりも早く、少女の襟首を鷲掴み、後ろに引き倒すヴァロフェス。

 同時に電光石火の速さで鎖を手繰って、ステッキを引っつかみ、黒蜘蛛の身体の真ん中を目がけ、弓矢のように投げ放つ。

「きゃあああああああああああああああああああっ!!」

 部屋に、否、屋敷中に響き渡る女の断末魔。

 狙い違わず銀のステッキは、剛毛の中から突き出た、二本の腕の間を貫いていた。

 グラリ、と漆黒の巨体が斜めに傾き、そのまま横倒しになる。

「ま、ま、まだ、お、お、終わりじゃない」

 喉に血が絡んだような声で黒蜘蛛が呻く。

「ソ、ソ、ソフィアを、わ、私は、む、娘をと、取り返すんだッ……!!」

 恐るべき執念と生命力だった。

 新たな傷口からダラダラと血を流しながらも、黒蜘蛛は倒れた巨体を引きずり、ヴァロフェスの喉元に向かって、白い手を伸ばして来る。

 相討ちか。

いや、私の負けだな……。

 怨敵に復讐を果たせぬまま、ここで死すのも運命か。

 そう思った瞬間――、ヴァロフェスは己の口元が歪むのを感じた。

 ヴァロフェスは嗤っていた。

 まるで絵画に登場する死神のように歯を剥き出しにして。

 と、その時だった。

「……な、何だと?」

ヴァロフェスは我が目を疑ってしまう。

 瀕死の黒蜘蛛の前にリリスが立ち塞がり――、そっとその巨体を抱きしめたのだ。

「う、あ、ああっ……」

「もう、いいの。これ以上、苦しまないで」

 優しく言って、ギュッと黒蜘蛛を抱きしめる腕に力を込めるリリス。

「あたしが全部、許してあげるから。――ね、お母さん」

 その瞬間、獣の唸り声がピタと止まった。

 苦痛に顔を歪めながらヴァロフェスはゆっくりと立ち上がる。

 そこに、彼が打倒すべき怪物の姿はなかった。

 脇腹をステッキに貫かれ、全身から血を流す、死にゆく女が横たわっていただけだった。

「……ソ、ソフィア? お、お前なの?」

 最早、何も映さなくなった瞳から血の混じった涙が流れ落ちる。

「あ、あなた、い、いつ、か、帰って来たの?」

 少し躊躇った表情を浮かべた後――、ポソッとリリスは女の耳元に何事かを囁きかける。

「……な、なぁんだ。お、お母様ったら、と、とんだ、慌てん坊ね」

 血に染まった女の顔に笑顔が花咲いていた。それは、今の今まで人外に身を落としていた者とは思えぬほど温かく、美しい笑顔だった。

「ず、ずーっとそばにいたのね。いてくれたのね」

 小刻みに震える女の手を優しく取り、それを頬に押し当てるリリス。

「わ、わたしの可愛いソフィア。これからもずーっと一緒に……」

 そこで言葉は途切れた。

 そして、訪れる、長い長い沈黙。

「……マクバよ。そろそろ姿を見せたらどうだ?」

 堰を切ったように泣きじゃくるリリスの声を聞きながら、ボソリとヴァロフェスは呟く。

「見世物は終わりだ」

 その言葉に応えるかのように――、グニャリと歪む鏡台。

 その鏡の向こうに白衣の魔術師が姿を浮かび上がらせた。

「女を仕留められましたか。流石は我が王子」 陽気な笑い声をあげるマクバ。

 それから優雅な仕草で一礼をしてみせる。

「こちらも、あなた様をお迎えする準備がようやく整ったところでございますよ」

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