氷のように冷たい手で頬を撫でられ、リリスは目を覚ました。
目の前にいたのは、ヴァロフェスがマクバと呼んだ、白衣の魔術師だった。
悲鳴をあげ、リリスは後ろに跳び退こうとするが――、できなかった。
ふと見ると、いつのまにか白い木製の椅子に座っていた。
身体を拘束するような物はどこにもなかったが、何故か身動きが取れない。
「…………ッ!?」
泣きだしそうになる自分を何とか抑え――、視線だけを動かし、リリスは周囲の様子を探ってみる。
そこは、既にルー夫人の寝室ではなくなっていた。
四方から聞こえてくるのは、人とも獣ともつかない喚き声。
泥水のように渦巻き、膿のように腐った色の空。
悪夢のようにどこまでも延々と伸びる地平線。
そこを埋め尽くすのは、何千、何万とも知れない無数の髑髏。それらに絡みつくようにして、足元ではウジやムカデ、それに蛇が蠢き合っている。
「な、何なの!?」
おぞましい恐怖に突き動かされ、思わずリリスは怒鳴っていた。
「この悪魔、あたしをどこに連れてきたの!?」
「《無の都》だ」
頭巾の奥で笑いながらマクバが言った。
「……冥界と呼ぶ者もいるがな。幸運に思うがいい。栄光ある、我が故郷に足を踏み入れたことをな」
軽く右手を振ってみせるマクバ。
と、出し抜けに――、二人の間に、絹のテーブルクロスに覆われた丸いテーブルが現れる。
その上には、貴族の晩餐に供されるような豪勢な食事が載せられていた。
「間もなく、仕上げの儀式だ。お前にはジッとしていて貰おうか」
そう言ってマクバは、大皿に盛られた果物を手に取る。
「どうだ? 食べるかね?」
「いらない!!」
リリスは即答していた。
「あんたみたいなやつの施しなんか……!!」
と、果実の表皮がパチンと音を立てて弾けた。
瑞々しい果実の中から飛び出して来たのは、小さな蛇。
あっと声をあげる間もなく、リリスの肩に這い登るとその首筋を一噛みする。
「きゃっ……!!」
焼け串を突き立てられたかのような痛みにリリスは身体を仰け反らせる。
「どうだ? この苦痛、身に覚えがあるだろう?」
スッと顔を近づけるマクバ。
「そう、お前がまだ四つの頃だ。あの日は、お前が母親を失った日でもあるな……」
ああ、そうだった。
滝のように汗を流しながらリリスは、思い出してしまう。
母ちゃんが死んで、あたしは家賃が払えないからって住んでいた小屋から追い出されてしまって、どこに言っても誰も相手にしてくれなくて、あたしは一人ぼっちでいるのが寂しくて悲しくて、お腹が空いて……。
「あの日、お前は私にある願い事をしようとした。覚えているか?」
もちろん、覚えている。
路地裏に迷い込んだあたしは、空腹のあまり、そこに置かれていたネコイラズを口にして、すぐお腹が痛くなって、いっぱいいっぱい、吐いちゃって、惨めで、死んでしまいたいほど惨めで。
……死ぬ?
「では、もう一度、その願いを口にするがいい」
殺して。
あたしを殺して。
殺してあたしを楽にして。
「もう一度、言うのだ」
研ぎ澄まされた刃のような鋭い声でマクバが命じる。
「さもなくば、リリス。お前の苦痛は未来永劫続くことになる」
だけど、とリリスは思った。
あの後、おやっさんとアブン兄ィが通りかかって、死にかけているあたしを抱き上げてくれて、それからお医者を呼んでくれて、それから……。
「言え!! 強情を張るな、小娘が!!」
と、その時だった。
ヒュウッ!!
風を切り裂く音を立てて、マクバの足元に突き刺さる銀のステッキ。
長く伸びた鎖がジャラジャラと乾いた音を立てる。
その瞬間、リリスの全身を蝕んでいた激痛が消えていた。
「……その娘に手出しするな、マクバ」
漆黒の外套を翻し、ゆっくりと近づいてくるのは仮面の男。
「これは私と貴様の戦いだ」