「見てごらん、リリス」
遥か遠方を指差し、白衣の魔術師がうっとりとしたように言う。
「なんと猛々しくお美しい姿か。やはり、あの方こそ我ら《叫ぶ者》の中の《叫ぶ者》よ」
瞬き一つできないまま、リリスは凝視していた。
ヴァロフェスが過去の幻影に取り囲まれ、もがき苦しむ様を。
そして、白衣の魔術師の言葉に応じてしまった、その一瞬を。
「あれがヴァロフェス……?」
ヴァロフェスの肉体は、驚異的な変貌を遂げていた。
船の帆のように巨大な漆黒の翼。
湾曲刀のように冷たく鋭い鈎爪。
竜の卵のような赤く燃える瞳。
どんな城壁でも一突きで崩せると思えるような鋭い嘴。
それは山のように巨大な、一羽の鴉だった。
過去の幻影であるはずの広場からけたたましい断末魔が響きわたる。
大鴉のはばたきは大風を起こし、街の家々の屋根を吹き飛ばし、断罪の塔を粉々に打ち砕いた。
そして、破城槌のような嘴は、逃げ惑う哀れな人間達を一人一人串刺しにしてゆく。
「や、やめて、ヴァロフェス!」
堪らずリリスは、一方的な虐殺を続ける大鴉に呼びかける。
「あんたまで、なんで!? みんな、終わったことなんでしょ!! なのに……」
「あの方の宿命だ」
勝ち誇ったように白衣の魔術師が言う。
「もはやヴァロフェスではない。世界に死と絶望の種を蒔く大鴉――、《羽ばたく禍》だ。十年前は失敗したが、今度こそ我が企みは成った」
ゲラゲラ、と高笑いを始める魔術師。
リリスは唇を噛みしめ――、足元に転がるステッキを拾い上げると、全速力で走りだしていた。
惨劇の都で鳴き叫び、破壊の限りを尽くす大鴉に向かって。
「お前などにできることは何もないぞ、小娘!!」
背後から魔術師の嘲り笑いが追いかけてくる。
「もう、手遅れだ!」
土煙を捲き上げながら、大鴉の嘴が石畳を抉った。
泣き叫びながら、数人の兵士が弓を射る。
数本の矢が黒い羽毛に包まれた首筋に命中し、大鴉は苦痛の叫びをあげた。
その叫び声の振動で瓦が吹き飛ばされる。
何とかそれをかわしながらリリスは大鴉の暴れる広場へと向かった。
広場はすでに瓦礫の山と化し、廃墟の様相を見せていた。
歯を食いしばりながらリリスは瓦礫の山をよじ登り始める。
「ヴァロフェス!」
そして、腹の底から精一杯の大声を張り上げる。
「あんた、一体、何やってんの!?」
ギロッ。
ルビーのように赤く燃え盛る、大鴉の瞳がリリスの姿を捉える。
小柄な少女の身体を、恐怖が電撃のように駆け抜ける。
激しい憎悪に濁ったその目は、まさしく狂獣だった。
全てを忘れ、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。
しかし、リリスは震えながらも、しっかりした声で言葉を発していた。
「あんた、こんな情けないことでいいの? あんな、銀蠅みたいなやつの口車に乗って、流されて、みんな、壊して!! それで本当に満足なの!?」
挑むような少女の問いかけに、その漆黒の翼を開いてみせる大鴉。
巻き起こったのは砂塵を吹きあげる、強烈な突風。
それに吹き飛ばされまいと、リリスは地面にステッキを突き立て、己を支える軸とする。
砕けた木片や小石が吹き荒れ、柔らかな少女の肌に幾つもの傷を負わせる。
「怒りをぶっつける相手が違うでしょうが……」
グッ、と奥歯を噛みしめるリリス。
大鴉の狂相を真正面から見据え、再び、呼びかけ始める。
「ヴァロフェス!! 大体、あんたはどうして旅に出たのさ!! あいつの、白衣の魔術師の言いなりになって、怪物になるため!? 男なら信念、貫けよッ!!」
と――、その巨大な片足をひょいと持ち上げる大鴉。
逃げる間もなく、リリスはその爪先に抑え込まれていた。
ステッキを手にしたまま、苦悶の声をあげる。
「終わりだな、小娘」
魔術師の冷たい声がすぐ近くから聞こえてきた。
「世界があるべき姿に変わる様を思い浮かべながら死ぬがいい」
大鴉の巨大な頭が、ずい、と下げられ、目の前まで迫る。
その瞳には哀れみの念は欠片も感じられない。
「す、好き勝手言ってくれるじゃないのさ……!!」
顔を真っ赤に染め、歯を食いしばってリリスはもがいた。
もがきながら、何とかして、大鴉に抑え込まれた右腕――、ステッキを掴んだ腕を引き出そうとする。
「……いいよ、ヴァロフェス。あたしを殺したいなら殺しても。元々、あんたが救ってくれた命だもんね」
自分でも驚くほど冷静な口調でリリスは、大鴉に話し始める。
血に染まった大鴉の嘴が、夕日を浴び、獰猛な輝きを放った。
その輝きは、ゆっくりとリリスの眼前に迫ってくる。
「だけど!」
残された力を振り絞り、リリスは右腕を引き抜いた。
上に掲げられた銀のステッキが鈍い光を放った。
「お願いだから、元のヴァロフェスに戻って!」
叫びながら、リリスは無我夢中でステッキを振り回す。
銀の柄が大きくしなり――、大鴉の頬を強かに打ちすえる銀のステッキ。