彼は足に押さえつけたちっぽけな生き物の思わぬ反撃に戸惑った。
殺してやれ。
身体中の血が大声でそう喚き立てる。
目をえぐり、腹を引き裂いて、臓物を啄んで……。
しかし、できなかった。
なぜだ?
獲物は引き裂くのが当たり前だ。
よく目を凝らしてみる。
女だ。
まだ幼い。
彼はその幼い人間に見覚えがあった。
だから、殺せないのか。
即座に彼は、その可能性を否定していた。
そんな人間の心とは――、否、他のなにものとも繋がらないのが今の自分だ。
自分は死と破壊をまき散らす為に生まれてきた《羽ばたく禍》なのだから。
しかし……。
足の下の小さな人間が片手を伸ばし、何事か叫んだ。
と、同時に彼の頭の中に鮮烈なイメージが炸列する。
闇の中でさしのべられた手。
開かれた扉。
ほのかな明かり。
首にかけられた始めての贈り物。
そして、その中で微笑んでいる少女。
イルマ。
そして――、プリプリ怒りながら顔を掴もうとするもう一人の少女。
傷つき血を吐く彼を気遣う柔らかな手。
自分を殺そうとした狂女の死を悼む小さな背中。
そうだ。
この人間を私は知っている。
この人間は私を知っている。
その人間の名前は……。
そして僕の名前は……。
「さあ、《羽ばたく禍》よ」
足もとで不快な声が聞こえた。
「この娘にとどめを」
「……リリス」
白衣の魔術師の呼びかけを無視して、嘴から人間の声が微かに漏れた。
足の下で、ハッとしたような表情を娘が浮かべた。 そんな娘から彼は、足をのける。
これ以上、傷つけないよう、そっと優しく。
「い、いかがなされたのです!?」
驚きと苛立ちが綯い交ぜになった声で魔術師が叫ぶ。
「こんな小娘など、一捻りしておしまいなさい!! 《羽ばたく禍》!!」
「違う……」
「赤く輝く瞳で彼は魔術師を見下ろす。
そして、はっきりとした人の言葉で彼は言った。
「私の名は――、ヴァロフェスだ」
逃げる間を与えず、巨大な翼を振い、魔術師をうちすえる。
弾き飛ばされ、驚愕に歪む、魔術師の口元。
「消えよ、マクバ」
貴様がこの世界に満ち溢れているというのなら、世界中の貴様を消して回るだけだ。
鋭い嘴が襤褸切れのようになった魔術師めがけて勢いよく振り下ろされる。
その身体が千路に引き裂かれると同時、石を投じた鏡のように、周囲の景色が粉々に砕け散る。
「残念です、王子」
どこか遠くから魔術師の溜め息混じりの声が聞こえた。
「まあ、今回は潔く負けを認め――、大人しく消滅することといたしましょうか」
世界が暗転したと思った、次の瞬間――
リリスとヴァロフェスは、寝室の床に投げ出されていた。
「よお、お二人さん……」
床に横たわったままだった木偶人形、オルタンが疲れきった声をかけてきた。
「よく生きていたな」
「無事か。リリス」
オルタンを無視し、ヴァロフェスが声をかけてくる。
「う、うん。何とかね……」
「すまぬ。お前をこんな危険に巻き込む羽目になるとはな」
何とかリリスは微笑みを浮かべようとし――、しかし、それは上手くゆかなかった。
「奥様……」
涙ぐみながら床に横たわる、ルー夫人を振り返るリリス。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、彼女は息絶えていた。
「あたしの母ちゃんね。小さい頃、病気で死んじゃったんだ」
「…………」
「親孝行できなかった分、奥様の役に立ちたかったの。……でも、あたし、結局、何もできなかったんだよね」
「何も? ……私の意見は違う」
女性の遺体の上にシーツを被せてやりながらヴァロフェスが答える。
「最期のその瞬間とは言え、お前は彼女からマクバを追い払った。私には、ただの一度も出来なかったことだ。お前は――、私よりずっと強い」
「ヴァロフェス……」
ポロリ、と透明な涙がリリスの頬を伝った時だった。
階下からドタドタと駆け回る足音が聞こえ、外が騒がしくなる。
「どうやら、狼どもも引き上げたようだな」
窓を開けながらヴァロフェスが言う。
「私はこのまま、消えさせてもらう」
「ったく、毎度のことながら忙しねぇなぁ……」
ブツブツと文句を言うオルタン。
そいつを拾い上げ、バサッと外套を翻すヴァロフェス。
「ちょっ、ちょっと待って……!!」
窓の向こうに身を乗り出すァロフェスにリリスは慌てた。
「まさか、このまま行ってしまうの?」
「ああ、この地に巣食う《叫ぶ者》はまだ存在する。放置するわけにもいくまい」
「だけど、そんな大怪我……」
「悠長に傷を癒す時間はない。何しろ、マクバは世界中に存在するのだからな」
「そんな」
「だから、これはお前が預かってくれ」
そう言って、懐から何か小さな物を取り出すヴァロフェス。
「全てが終わるその時までは――、な」
ヒョイ、と投げ渡され、反射的にリリスは受け取っていた。
それは例の青く塗装された、貝殻のペンダントだった。
「ヴァロフェス? これって、あんたの……」
鳥が羽ばたくような音が聞こえた。
リリスが顔をあげた時、仮面の男の姿はどこにもなかった。
心地よいそよ風が、開かれたままの窓を優しく揺らしていた。