狂おしいまでに澄み切った蒼穹。
太陽は明るく無慈悲な微笑を浮かべ、灼熱の槍の如き光線を打ち放つ。
その下に広がるのは、白く焼けた砂の大海。
それは四方に向かって、悪い夢のように延々と続いていた。
この世の果てを思わせる、そんな光景の中を進む人影が一つ。
幽鬼の如く、ゆらゆらと揺れるそれは異形だった。
砂埃にまみれた襤褸布を見に纏い、黒光りする鴉の顔を持つ異形。
否、よく見ればそれが精巧に拵えられた仮面であると分かる。
その目孔から覗く瞳は、年端もいかない少年のものだった。
しかし、その瞳には、このような辺境の地にあることに対する恐怖や焦燥、怒りや悲しみ……、そう言ったものが一切感じられない。
まだ幼さが残る瞳に渦巻くのは、底なしの暗闇――、虚無だけであった。
乾き刺すような熱風が、襤褸布の裾をはためかせていた。
「よお、また遭ったな」
唐突に、楽しげな声が、少年の頭の中にキンキンと響く。
爪先に何かが当たるのを感じて、少年は足元を見おろす。
そこには、人間の骨――、いくつものサレコウベが小さな山のように積み上げられていた 。
それには見覚えがあった。
少年が無人の廃墟と化した祖国から逃げ出し、この不毛の地に迷い込んだ時に見つけたものと同じものだ。だとすれば、少年は十日もの間、この砂漠をさ迷い歩き同じ場所に戻って来たことになる。
思わず、乾いた笑い声をあげる少年。
「お前さん、ずいぶんと頑張るねぇ? どんせ、あたし達と同じ運命だってのにさ。無駄な足掻きはやめて、サッサッとくたばっちまいなよぅ」
無言のまま、少年は片足を上げた。
無感動に、そこ積み上げられた人骨を踏みにじる。
それと同時、目には見えない何かが――、陽気な、だが、悪意に満ちた笑い声を上げながら遠ざかっていったような気がした。
「……イルマ、どこにいる?」
カサカサに乾燥した、だが、形のよい少年の唇から掠れ声が漏れ出る。
「返事を、返事をしてくれ。イルマ、イルマ……」
熱に浮かされたかのように少年は同じ言葉を繰り返す。
――ねぇ、王子様? 読書も結構ですけれど、たまには外出もいかがですか? 今日、中庭に綺麗なお花が咲いていたのですよ?
蝋燭の炎が揺れる地下室、鉄格子の向こうから優しく微笑みかける、年上の娘。
閃光を伴い脳裏に蘇ったその娘の姿に少年は、雷に撃たれたかのように全身を震わせる。
イルマ。それが娘の名前だった。
生まれ落ちた時から魔物の落とし子として、この世のありとあらゆるものから隔絶され続けた少年の世話係。
娘の仕事は、真っ暗な地下ですごす少年の許に日に三度、食事を運ぶこと。
それ以外、余計なことはしてはならぬと厳しく言いつけられているはずだった。
にも拘らず――、娘は健気にも少年に話しかけ、殻に閉じこもった彼の心を開こうと試み続けていた。
正直なところ、この気立てのよい娘の親切は、ただ疎ましいだけだった。
少年にとってこの世界は、理不尽で、邪悪と恐怖に満ちた、お伽話に登場する魔性の森そのものだった。
一歩でも少年が動けば、様々な姿形をした拒絶と悪意が彼を傷つけ、打ちのめそうと待ち構えていた。
だから、少年は身も心も闇に浸し、その姿を曝すことを避け続けた。
そんな彼にとって、夏に咲く向日葵のような屈託のない笑顔で微笑む娘の存在は、眩しすぎて、僅かな接触でも苦痛を覚えるほどだった。
しかし、娘の手が仮面に覆われた顔に触れた時――、少年の中で何かが変わった。
今となっては、そのきっかけが何だったのか、はっきりとは思いだせない。
大方、話しかけられても返事一つ返さない少年に業を煮やした娘が格子越しに少年の顔を掴み、自分のほうに目を向けさせた、と言ったところだろう。
誰かに素手で触れられる。少年にとってそれは初めての経験だった。
己の心を覆った闇が微かに薄れたと感じたことも。
孤独が癒されることが心地よいと知ったことも。
少年は、いつしか、娘が訪れるのを心待ちにするようになっていた。
娘のほうも、一日たりとも休むことなく、彼の許へ通い続けた。
もっとも、娘が一方的に話をし、少年はむっつり押し黙っているという関係に変化はなかったが。
「……イルマ」
厳しい日差しに刺し貫かれ、仮面の少年は力なく喘ぐ。
「……頼む。……私を……一人にしないでくれ……」
糸の切れた操り人形のように、パタン、とその膝が砂の上に堕ちる。
と――、再び、脳裏に閃いた光景に少年の瞳がカッと見開かれた。
膿のように腐った色で染め上げられた空。
妖気に満ち溢れた、生臭い風。
打ち砕かれた瓦礫とバラバラに切り刻まれた人々。
そこは死で埋め尽くされた都、少年にとり憑いた永遠の悪夢だった。
その悪夢の渦中、娘は血にまみれた姿で微笑んでいた。
「やっと、いつもの王子様に戻ってくれましたね。お、王子様が、あのまま、ど、どこかに飛び去ってしまうんじゃないかって、あ、あたし、不安で不安で……」
青ざめた顔で、せつないまでに美しい微笑みを浮かべながら息絶える娘。
座り込んだ少年の口から、獣のような咆哮が迸った。
嗚呼、可愛そうなイルマ。
心の歪んだ怪物に情など抱いたせいで、彼女は生命を落としてしまった。
そうだ。イルマは、この私が殺したのだ。
と、その時だった。
轟ッ……!!
音を立てて砂嵐が前方に巻き起こった。
叫び続けながら、少年は見た。黄色い砂塵の中、真珠のような光沢を放つ、純白の長衣を纏った人物が、目深にかぶった頭巾の奥からじっと自分を見つめているのを。
「マ、マクバ……!」
掠れた声が少年の唇から毀れ堕ちる。
それは少年の育ての親とも呼ぶべき存在の名だった。
世界の全て破壊するよう、少年を煽り立てた魔術師。
そして、少年が自らの命と引き換えにしてでも復讐を果たすと誓った怨敵。
と、白衣の魔人が、ニタッ、と口元を歪めた。そして、砂塵をその身にまとわせたまま、少年の方ににじり寄ってくる。
「やめろっ!」
少年は叫んだ。
「こっちに来るなっ!」
それは、怒りや警告の叫びではない。
恐怖に怯えた、懇願の叫びだった。
狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え……。
渦巻きながら砂嵐が少年に吠えかかる。
霞む視界の中、グニャリと歪む白衣の魔術師。
その姿が干からびた、亡者の顔へと変わってゆく。
「運命からは逃げられないよぅ、坊や」
耳障りなまでに陽気な亡者の嘲笑。
焼けるように熱い砂を全身に浴びせ掛けられながら、少年はそれを聞き続けた。
ここは髑髏が砂漠。
無念を残したまま朽ち果てた者達が吹き堪る、この世の果て。
生ある者が足を踏み入れれば、心の闇を鏡のように映し出す呪われた地。
「未来永劫、この世を呪い、他人を呪い、己を呪い、そして、愛した者が流した血を啜って生き続ける《叫ぶ者》。それがお前なんだよッ……!!」
砂嵐の渦に捕えられ、魂を切り裂くような絶叫を聞きながら、少年は意識を失った。