粘りつくような闇の中に少年は身体を横たえていた。
もう、どれくらいそうしているのか、見当がつかない。
しかし、そのことに不安や恐怖は感じない。
もう何もしなくてよい、という安堵感すら覚えている。
このまま――、ただ、心と生命が凍てつき、朽ち果てるのを待てばいい。
そうすれば、私はもう二度と……。
少年の口元に疲れ切った微笑みが浮かびかけた時だった。
ポチャ……。
小さな音を立て、冷たい物が口腔に流れ込んだ。
「……ッ!?」
「あっ! 生き返った!」
驚き、目を見開いた少年の耳元で甲高い歓声があがった。
「見て見て!? 鴉が、鴉が生き返ったよぅ!?」
「馬鹿だね、お前は。そいつは鴉じゃない。鴉の仮面を付けた人間だよ」
「そんなことより、長に知らせに行かなきゃ!!」
「あ、俺が行くよ!!」
「ずるーい!! あたし達も行く!!」
「…………?」
分厚い毛布に包まれたまま、少年は困惑し、瞳を瞬かせていた。
薄暗いそこは、どうやら大きなテントの中のようだった。
驚いたことに、少年の周りを取り囲み、キャイキャイ黄色い声ではしゃいでいるのは何人もの子ども達だった。しかも、十にも満たない幼子ばかり。
何だ、これは? 一体、何がどうなっている?
顔を歪めながら、少年が上半身を起こしかけた時だった。
「ねぇねぇ、鴉さん」
一人の子どもが――腕白そうな男の子だ――、突然、少年の手を掴み、キラキラ、目を輝かせながら言った。
「どんな芸ができるの? お手玉? 軽業?」
「…………芸?」
何の話か理解できず、少年は首を傾げる。
そして、幼い子ども達の身なりに改めて注意を払う。
彼らは皆、少年に負けないくらい薄汚れた井出達をしていた。
布を何重にも巻きつけた重そうな帽子も、不自然なまでに分厚い民族衣装も所々破れ、砂塗れだ。
「なぜ、私が芸など……?」
「だって、お兄さん、旅芸人でしょ?」
少年の顔を指差し、屈託のない笑顔で男の子が言う。
「俺、どこかの街で変なお面を被った芸人を見たことがあるもん」
「旅芸人のことなど知らぬ」
吐き捨てるように言って、少年はそっぽを向く。
「そんなことより――、ここはどこだ?」
その問いかけに子ども達が顔を見合せた時だった。
「……ご苦労だったな、お前達」
凛とした声がテントの入り口から聞こえた。
夕陽を背に浴び、そこに立つのは、ほっそりとした身体つきの若い女だった。
歳は少年よりも年上で、十五、六と言ったところか。
よく日に焼けた、凛々しく端正な顔立ち。
緑色に輝く瞳は、力強く、聡明さと医師の強さが滲み出ているかのようだった。
身なりは子ども達と同じく、くたびれていたが、その物腰には気品が感じられ、腰に下げた短剣の鞘には、匠の技と思しき、美しい装飾が施されている。
恐らくは王冠や王錫のように――、権威ある階層を象徴するものなのだろう。
少年の推測を肯定するかのように、彼女の後ろには護衛と思しき若い男が影のように立っていた。
「あ、ミーシャ様だ!!」
うわぁい、と歓声を上げ、娘へと殺到する子ども達。
腰に跳びついたり、手を引っ張ったり、キャアキャア黄色い声ではしゃぎ出す。
「こらこら、静かにしなさい」
苦笑しながら――、ミーシャと呼ばれた娘が纏わりつく子ども達をやんわりたしなめる。
「ここは、もう、いい。お前達も出発の支度をしておいで」
はーい、と元気良く返事を返し、子ども達はテントを飛び出してゆく。
その後ろ姿を見送った後――、
「……息を吹き返したようでなによりだ」
少年を振り返り、ミーシャが言った。
男のような言葉遣いではあったが、その口調は柔らかく優しかった。
「ようこそ、《青い風》の野営地へ」
「……《青い風》?」
「知らないか? 我が一族は、行商を生業とし、世界各地を旅する一族だ。一部では放浪民、蛮族などと、あまり嬉しくない呼び方もされているがね」
「…………」
小さく笑うミーシャに少年は口を閉ざす。
「改めて自己紹介をさせてもらおうか。……私はミーシャ。暫時ではあるが、亡き父に代わり、一族の長を務めている。そして、こちらは、私の従姉妹であるグレッド。私の至らぬところをいろいろと補佐してくれている」
ミーシャに促され、後ろに控えていた若者――、グレッドが軽く会釈をする。
「さて、次は貴方の名前も教えてもらえないか?」
そう言って、少年の傍らに片膝を突くミーシャ。
ギクッ、と少年は全身を強張らせていた。
砂埃にまみれた、その身なりからは想像もできない程、可憐で心を和ませる微笑みに。
何故だ、と少年は自問する。
何故、こんな人間が今更、私の目の前に現れる?
もう、何もかも手遅れだと言うのに。
最早、私には呪いと憎しみに焼け焦がれ、狂気に包まれながら死を迎える以外、道は残されていないと言うのに。
「おい、小僧。なぜ、黙っている?」
ムッとしたように口を挟んだのは、グレッドだった。
「砂に埋もれ、死にかけていたお前を救った相手に礼の一言も言えないのか? それとも、口がきけないのか?」
「やめろ、グレッド」
眉間に皺を寄せながらミーシャ。
「そんな、責め立てるような言い方はよせ」
「しかし、族長……」
「うるさい。黙れ」
低い唸り声を発する少年。
恐ろしいほど、不機嫌な声だった。
「何? 小僧、お前、今、何と言った?」
「構わないでくれ、と言ったのだ」
顔を強張らせるグレッグを正面から睨み据え、少年は続ける。
「あなた方に助けを求めた覚えはない。恩着せがましいこと言うのは、やめてもらおうか」
「何だと!? 無礼にも程があるぞ!!」
「落ち着け、グレッド」
いきり立ち、少年の胸倉を掴もうと腕を伸ばす若者。
その手を押さえながらミーシャが言う。
「相手はまだ子どもだぞ? それに我々とは違い、この髑髏が砂漠をたった一人でさ迷い続けていたのだ。少しは労わってやれ」
「しかし……!!」
労わってやれ、だと?
悲しげな視線を送ってくるミーシャに少年は、沸々と怒りが、理不尽な怒りがわき上がってくるのを感じた。
ふざけるな。
この女、一体、何様のつもりなのだ?
《青い風》だか、族長だか知らないが――、自分だって、小娘ではないか。
己の部族の薄汚い子どもらと、この私を同じだと見做しているのか。
悔しさのあまり、少年はギリッと奥歯を噛みしめていた。
そして――
「お、おい? どこに行く?」
「出てゆく」
驚いたように声をかけるグレッド。
ゆっくりと立ち上がりながら、少年は忌々しげに言った。
「こんな所で油を売っている暇はない。私には為さねばならぬことがある」
「一人で砂漠を渡るつもりか? 死ぬぞ、お前……」
死ぬぞ、と言う言葉に思わず笑みがこぼれた。
何の感情もこもらない、空っぽの微笑み。
薄気味悪そうに顔をしかめたグレッドに小さく手を振り、その傍らを横切って、少年はテントの外へと足を踏み出す。
「…………」
ミーシャ達、《青い風》の野営地は、盛り上がった砂丘の上に築かれていた。
四方を見渡すことができ、外敵の接近も容易に察知できると思われた。
もっとも、周囲に広がるのは無味乾燥な砂の海だけであり、人影一つ、そこには見当たらなかった。
まるで、死そのものが野営地を包囲しているかのようだった。
「奇妙だな……」
片足を引きずるようにして進みながら、少年は野営地を見回す。
少年が寝かされていたテントを含め、大小、二十張ほどのテントが寄り添うように張られている。
その間を部族の者達が、食事の準備をしたり、荷を作っていたり、駱駝達の世話をしていたりするのだが――、女や子ども、それに老人ばかりで、大人の男の姿は全く見受けられなかった。
「……私には関係ないか」
ふん、と鼻を鳴らし、少年が歩調を早めようとした時だった。
グニャリと片足が力なく崩れ落ち、少年は砂の上に倒れこんでしまう。
「おや? どうしたんだい?」
「大丈夫?」
「おい、誰か水を持って来てやれよ」
ザワザワと少年の周りに《青い風》達が近づいてくる。
驚くことに、彼らは心の底から少年を心配しているようだった。
やめてくれ。
哀れみなど、欲しくない。
地面に突っ伏したまま、少年は屈辱に身を震わせていた。
と、
「……ほら、言わないことではない」
その背中に呆れたような声が投げかけられる。
ミーシャだった。
「無理をするからこうなる」
「余計な御世話だ」
しわがれた声で少年は毒づく。
「貴女に私の何が分かる?」
「何も話そうとしない癖に、何が分かる、と来たか。気難しい子だな」
そう言うと素早く少年を立ちあがらせ、強引に肩で支えるミーシャ。
「私をどうするつもりなのだ?」
「テントに連れ戻すのだよ」
やれやれ、とミーシャが溜め息をつく。
「こんな所で死なれては、一族の者達が動揺する。私としても目覚めが悪い」
「…………」
グッ、と少年は奥歯を噛みしめるが――、ミーシャの言うことはもっともだった。
「この砂漠は、何が起きるか分からない魔境だ」
テントに向かって少年を引きずりながら、表情を引き締めるミーシャ。
「悪いことは言わない。為すべきことがあるのなら、尚更、慎重に行動しなさい」
為すべきこと?
確かに、先程、少年はミーシャにそう言った。
しかし――
よいしょ、と少年の肩を担ぎ直すミーシャ。
「ところで、少年……」
「ヴァロフェスだ」
「うん?」
「少年ではない。……私の名は、ヴァロフェスだ」
そうか、と頷くミーシャ。
何故か、その横顔には嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。