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「…………無様だ」

 ランプが吊り下げられたテントの天井を見上げながら、少年は――、ヴァロフェスは低い呻き声を上げた。

「私は自分の面倒すら見ることができないのか」

 いつの間にか、外はとっぷりと日が暮れていた。

 入口のほうからは、身を刺すような冷気がヒタヒタと入り込んでくる。

 と、

「ヴァロフェス」

 そろりとテントの中に入って来たのはミーシャだった。

「具合はどうだ?」

「別に。……変わりはない」

「そうか。後、半刻ほどでここを発つ。そのつもりでいてくれ」

「こんな時間から移動を始めるのか?」

「あ、ああ……」

 訝しげに尋ねるヴァロフェスにミーシャが顔を曇らせる。

「ちょっとした厄介事に巻き込まれていてね。それについては後で説明する」

「…………」

「ところで――、」

 ふと、ミーシャの眉間に皺が寄る。

「食事、全く手を付けていないのではないか?」

 咎めるように言って、ヴァロフェスの枕元に置かれた皿を指さす。

それは先程、《青い風》の子ども達が彼のために運んでくれたスープだった。

「欲しくないのだ」

 苦い声でヴァロフェスは答える。

「何なら、ここの子ども達に食べてもらっても……」

「ダ、メ、だ」

 言葉を遮り、怖い顔になって皿を手に取るミーシャ。

「食べられる時は、例え満腹でも必ず食べる」

「…………」

「それが旅の鉄則だ。さあ、無理をしてでも食べなさい」

 そう言ってミーシャは匙でスープを掬い上げ、ヴァロフェスの唇に押しつける。

 私は赤ん坊ではない、そう言って抗おうとしたが強引に匙を口の中に押しいれられ、文字通り、ヴァロフェスは閉口してしまう。

「どうだ? 我々、《青い風》の名物料理、毒蛇の肝スープの味は?」

「…………まずい」

 苦虫を噛み潰したような味が口一杯に広がるのを感じながらも、ゴクン、とそれを飲みこむヴァロフェス。

 よし、と満足げに頷くミーシャに溜め息をついてしまう。

「貴女は変わっている。私のような得体の知れぬ者を助けて、何かいいことでもあるのか?」

「別に。何も」

 クスッ、と悪戯っぽく笑いミーシャは言った。

「この広い砂漠で、こうして知り合えたのも何かの縁だ。助けてはいけない法もあるまい?」

「こんな人外魔境で気楽なことだな」

 思わず、皮肉を返してしまうヴァロフェス。

 しかし、不思議なことの先程のような苛立ちは感じていなかった。

 と、その時だった。

「きゃああああああああああああああああああああああっ!!」

 テントの外から聞こえたのは、絹を切り裂くような悲鳴。

 それは野営地のあちこちから響き始めていた。

「やつらめ。やはり、今夜も現れたか」

 低くなった声でミーシャが呻く。

 その表情が穏やかな少女から、鋭い眼差しを持つ戦士へと一変していた。

「やつら?」

「心配は無用だ。《青い風》の客人に手出しはさせない」

 そう言って、ミーシャは腰の短剣の鞘を抜き払う。

 ヴァロフェスが引きとめる間もなく――、短剣を構えたまま、テントの外に飛び出してゆく。

「な、何事だ? 一体……」

 身体を引きずるようにして、ヴァロフェスもその後を追う。

 そして――、見た。

 仄かな月明かりの下、《青い風》の野営地を奇怪な生き物達が駆けずり回っているのを。

 それは蠍の群れだった。

 ただの蠍ではないことは、一目で分かった。

 野兎ほどの大きさもある蠍どもの頭部には、皮を剥ぎ取られた人間の顔――、血にまみれた髑髏が被せられていた。

 ガチガチと鋏を打ち鳴らし、棘が生え、節くれだった長い尾を振りかざしながら、半狂乱に陥った《青い風》や彼らの駱駝に攻撃を仕掛けはじめる。

「急げ、グレッド!!」

 短剣を振り回しながら、叫んだのはミーシャだった。

「皆を安全なところへ!! このままでは、いずれッ……!!」

「分かっている!!」

 斧を片手に叫び返す若者の声は悲壮だった。

「しかし、数が多すぎるんだッ!!」

 と、身体に火をつけられたかのような悲鳴をあげ、子どもが一人、ヴァロフェスの前に転がり込んできた。

 それは先程、彼の許へ食事を運んでくれた男の子だった。

 そして、男の子の背中に尖った脚を複雑に絡みつかせて張り付く、異形の蠍。

 尾の先に光る鋭い針が男の子の首筋を一刺しする。

「ひっ……!!」

 小さく悲鳴をあげた男の子の顔が強張る。

 か細い首筋を夥しい血が伝い落ち、ポタポタと砂を濡らす。

 と、その場に凍りついたヴァロフェスに向かって、蠍が落ち窪んだ眼窩を向ける。

 そこには底知れぬ悪意と殺意だけが煮え滾っていた。

 ヴァロフェスにとって、それは

 息を切らせながら顔に付いた返り血を拭うグレッド。

「毎晩毎晩、現われやがって! 俺たちを弄んでいるつもりか!?」

「駱駝は諦めろ! 足を失うのは痛いが、部族の者の命にはかえられない!」

 傷を負った子どもを抱き上げながらミーシャ。

「グレッドは皆を連れて先を急げ!! 私はやつらの足どめをする!!」

 グレッドの顔に浮かぶ、躊躇いの表情。

 しかし、それも一瞬だけのことでミーシャの腕から子どもを受け取ると、斧を振りかざしながら、風のような速さでその場から駆け出してゆく。

「貴方もだ!!」

 ヴァロフェスを振り返り、ミーシャが言った。

「グレッド達と一緒に逃げなさい!!」

「……私は、いい」

 小さく首を振り、消え入りそうな声でヴァロフェスは言った。

「私はここに残る」

「何を言っている、ヴァロフェス!!」

 苛立ったように声を荒らげ、傍にあった松明の炎を拾い上げるミーシャ。

「こんな時にッ!!」

「逃げて――、生き延びて何になる?」

 自分でも驚くほど弱々しい声でヴァロフェスは続けた。

「新たな地獄が待ち受けているだけだ。だから、私はここで死ぬことにする。そうすれば、きっと楽になれる……」

 さっ、とミーシャの顔色が変わった。

 次の瞬間、ヴァロフェスの頬に飛ぶ平手打ち。

「軽々しく、死を口にするな」

 毒気を抜かれ、唖然とするヴァロフェス。

 そんな少年に向かって、ミーシャは静かに、だが、絞り出すような声で言った。

「死を請うのは、最期の最期まで生き抜く苦難に挑み続けた勇者だけに許された行為だ」

「…………ッ!?」

 唇を噛みしめ、ヴァロフェスを見据えるミーシャ。

 その眼差しには見覚えがあった。

 それは彼女と――、イルマと同じだった。

 息を引き取る、その瞬間までヴァロフェスを気遣い続けた娘と同じ眼差し。

 自分自身と他者の生命に対し真摯に向き合った者の身が持ち得る、強い眼差し。

 だとすれば、ヴァロフェスが吐いた弱音は、彼女達に対する侮辱以外のなにものでもない。

 全く、情けない。

 これでは子ども扱いされても当然ではないか。

 いたたまれなくなり、顔を伏せかけた時だった。

 一匹の蠍がミーシャの踵を狙って忍び寄るのが見えた。

 次の瞬間、ヴァロフェスは自分でも驚くような行為に打って出ていた。

 足元に堕ちていた小石を素早く拾い、蠍の背中を目がけ、勢いよく、投げ付ける。

 ギャッ、と断末魔をあげ、砕け散る蠍。

「た、助けるつもりが助けられたな」

 顔を青ざめさせながら、震えるヴァロフェスの腕を取るミーシャ。

「とにかく、抗い続けようじゃないか。みんな、一緒にな」

 その言葉と同時、にじり寄る蠍の群れ目がけ、燃え盛る松明が投げつけられた。


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