夜が明け――、空には再び、白熱する太陽が顔を見せていた。
その真下に広がる急勾配の砂丘には、灼熱に焙られながら進む人々、《青い風》の姿があった。
そして、仮面の少年、ヴァロフェスもまた、その最後尾で歩き続けていた。
移動手段である駱駝を全て失い、ほうほうのていで逃げ出した一行の強行軍は、一晩中、続いた。
それにもかかわらず、ただの一人も脱落者が出なかったのは、ミーシャの族長としての技量の高さ、グレッドの適切な補佐、そして、何よりも《青い風》達の互いに庇いあう姿勢に拠るところが大きかった。
ふと、ヴァロフェスは目の前を行く子ども達に注意を向けた。
全く、彼らには頭が下がる思いだった。
昨夜、あんな恐ろしい目にあったにもかかわらず、明るい声で笑い合っている。
それどころか、弱音一つ、聞いた覚えがない。
驚いたことに、ヴァロフェスの目の前で毒針を受けた男の子も、今ではすっかり元気を取り戻し、仲間とともに道なき道を進み続けている。
しかし、とヴァロフェスは思った。
昨夜の怪物ども……。
やつらは一体、何者なのだ?
共に、命からがら逃げ出したミーシャによると、あの蠍の群れは、《青い風》がこの砂漠に迷い込んで以来、毎晩のように襲ってくるのだと言う。
そして、その毒針や鋏で傷を負わせては、退散してゆく。
まるで鼠を弄ぶ猫のように。
「ヴァロフェス」
考え込む少年の隣にいつの間にかミーシャがいた。
「思った以上に過酷な道程になったが……、大丈夫か?」
「ああ。あなたこそ、随分と無理をしているように見えるが」
「心配ない。我々、《青い風》の女は心も身体も頑丈だ」
「……一つ、聞いてもいいか?」
少し躊躇い、ヴァロフェスは尋ねた。
「貴女達は、どうしてこんな場所に迷い込んだのだ?」
「……戦だよ」
遠くを見つめるような眼差しになってミーシャが答える。
「些細なことで商売敵の部族と諍いが起きてね。先代族長とその息子は、呆気なく討たれ、《青い風》は散り散りになって敗走。そして、妾腹とは言え、族長の血を直接引き、剣の腕もそこそこの私にコレが託されたというわけだ」
そう言って、腰に下げた短剣を指さすミーシャ。
「先代――、親父殿のことは、ここだけの話、正直、恨んでいるよ。どうして、私のような小娘にこんな重責を回すのかとね。こうしていると、まるで醒めない悪夢に閉じ込められたような気がしてくる……」
少し俯き加減になった少女の横顔には、初めて翳りのようなものが浮かんでいた。
ヴァロフェスの視線に気がついたのか、おっと、と口に手を当てるミーシャ。
「すまない。下らない泣き言を聞かせてしまったね」
「…………」
「今の私には、自分の未熟や弱さを理由に逃げることは許されないのだ。仲間を――、あの子達を安全な場所に逃がすまではね」
そう言って、ミーシャは前方を歩く、幼い子ども達を愛おしげに見つめる。
「貴女は、貴女なら最後まで戦い抜けるだろう」
低い声でヴァロフェスは言った。
「貴女には守るものが数多くあると見える。しかし、私には――、」
守るべきものなどない。
そう、何一つ。
「ところで――、」
黙り込んだヴァロフェスを気遣うようにミーシャが尋ねた。
「この砂漠を抜けた後、ヴァロフェスはどこに行くのだ?」
「それは……」
「よければ、もう少し、私達と旅を続けないか?」
そう言ってミーシャは勢い込み、声を弾ませる。
「前も言ったが――、こうして知り合えたのも何かの縁だ。我々としても、今は、少しでも男手が欲しい」
それは思いもかけない言葉だった。
しばらくの沈黙の後、ヴァロフェスは掠れた声で応えていた。
「しかし、ミーシャ。私は……」
「勿論、無理強いはしない。だが、考えて欲しいのだ」
熱のこもった口調でそう締めくくり、グッと拳を握りしめるミーシャ。
と、その時だった。
「おおおいっ、ミーシャッ! いや、族長!」
前方から大きな声が聞こえて来た。
それは最前列を進んでいたグレッドだった。
「どうした!?」
ミーシャの顔色がサッと青ざめる。
「まさか、また、あの化け物どもか!?」
「違う!! 朗報だ!! この砂丘を下りきったところに――、オアシスがある!!」
その言葉に思わずヴァロフェスはミーシャと顔を見合わせていた。
ミーシャの表情からみるみる疲労の色が薄れて行き、歓喜に光り輝き始める。
「行こう、ヴァロフェス!!」
「あ、ああ……」
ヴァロフェスの返事が終わるよりも早く、彼の手を掴み取るミーシャ。
そして、急勾配の砂丘をかけ上ってゆく。
「俺達、何とか助かりそうだな」
ヴァロフェスとミーシャをはちきれんばかりの笑顔で出迎えるグレッド。
「神々に見放されたかと内心、ヒヤヒヤしていたが取り越し苦労ですみそうだ」
グレッドの指し示す方角をヴァロフェスは目で追いかける。
荒涼とした景色の中にあったのは、今や眩いばかりの緑地。
その真ん中には、小さな湖があり、陽を反射して鏡のようにきらきら、輝いていた。
「良かったな、ミーシャ……」
仮面に覆われた顔の口元をほころばせ、ヴァロフェスは少女を振り返る。
まだ、砂漠を抜け切ったわけではない。しかし、ミーシャの一族を守るための戦いは、間違いなく勝利に向かっていると思えた。
と――、
「違う……」
ミーシャの唇から毀れ堕ちたのは、殆ど聞き取れないような、小さな喘ぎ声。
「あそこは、私達が……、そんな馬鹿な……」
「ミーシャ?」
ヴァロフェスは首を傾げ――、ミーシャの表情の変化にハッと息を飲む。
その顔色は、まるで死人のような蒼白だった。
オアシスを見下ろす瞳は大きく見開かれ、全身を小刻みに震わせている。
目の前に現れた小さな楽園の姿に、ミーシャは明らかに怯えていた。
「やったぁ!! 皆、水だ!! 水が飲めるぞーっ!!」
そんな族長の様子のは気付かず、歓喜に沸きかえる子ども達。
「ま、待て!!」
得体の知れない焦燥に駆られ、ヴァロフェスは呼びかける。
「ミーシャの様子がおかしい!! しばし、待て!!」
しかし、飢え、渇き切った子ども達の耳に制止の言葉は届かない。
誰とはなく、わっ、と歓声をあげ、オアシスを目指して全力で走りはじめる。
「くっ……!!」
口元を歪め、《青い風》達の後を追うヴァロフェス。
辿り着いたオアシスを支配していたのは、死んだような静寂。
勢いよく湖に飛び込んだ子ども達の跳ねあげる水しぶきの音がそれをかき消していた。
息を切らせながら、ヴァロフェスは湖の畔に立ちつくしていた。
「よう、客人」
湖の中から日焼けした顔で呼びかけるグレッド。
「一緒に水浴びでもどうだ? 気持ちがいいぞ?」
「ダメよ、グレッド!!」
ヴァロフェスが警告を発するよりも早く、殆ど悲鳴のような少女の声がオアシスに響く。
その声に笑顔で水浴びをしていた子ども達も、水袋を詰め代えようとしていた老人達も驚いたような表情で動きを止める。
「ど、どうしたんだ? 俺はただ……」
「みんなも!! 早く、この場所から離れるの!!」
困惑し、目を丸くするグレッド。
顔面蒼白のまま、年相応な少女の口調でミーシャは叫び続ける。
「ここはダメ!! ここは、ここは私達が――、」
皆殺しにされた場所なのッ……!!
「…………何?」
鼓動が止まるかのような沈黙の後、ヴァロフェスは掠れた声が己の口から漏れ出るのを聞いた。
それから《青い風》を前に立ち尽くす、ミーシャを見遣る。
彼女の明るい色の瞳が大きく見開かれている。胸にドス黒いものが溜まってゆくのを感じながら、その視線を追うヴァロフェス。
ブクブクと泡立つ湖面。
そこにプカプカと浮かび上がって来たのは、何体もの白骨化した遺体だった。
そして、ヴァロフェスは信じられない、否、信じたくないものを見た。
浮かび上がって来た一体の遺体の腰には、見事な装飾が施された短剣が吊るされていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
長い間――、言葉を発そうとするものは誰一人とていなかった。
その沈黙の中、ヴァロフェスは思い出す。
王宮の図書室の納められた、一冊の歴史書。
そこには、呪われた砂漠に姿を消した、とある一族の悲劇が記されていた。
と、
「生への執着が捨てきれぬ、惨めな死霊どもが」
それは地の底から響くような、不気味な男の声だった。
「ワシの分身に追い込まれて、また、帰って来よったか……」
ツン、とヴァロフェスの鼻腔に突き刺さる、血と泥が混ぜ合わされたかのような異臭。
クククッ、と喉の奥から発するような笑い声をあげながら、湖底から巨大なものがゆっくりと姿を現す。
それは大きな牛ほどもある、巨大な蠍だった。
黒光りする甲殻。鮮血と腐肉がこびり付いた、二つの大鋏。
そして、蠍の頭部に張り付いた、醜い老人の顔。
「いい加減に諦めろ。早く、ワシの一部になってしまえ」
あっ、と声をあげる間もなかった。
湖から浮上したその怪物は、すぐちかくで目を白黒させて浮き沈みしていたグレッドの首を、その巨大な鋏で跳ね飛ばす。
不思議なことに、血の一滴も毀れなかった。
首と泣き別れになったグレッドの身体が一瞬、揺らいだかと思うと――、細かな粒子となり、吸い込まれるようにして大蠍の体内へと消える。
「ああ、美味ぢゃ美味ぢゃ」
クチャクチャと口を動かし、快楽に歪む老人の顔。
「他人の苦痛はワシの大好物よ。何度しゃぶっても飽きぬわ」
身動きも取れぬまま、子どもの一人が火をかけられたような悲鳴をあげ、それはたちまちのうちに《青い風》全体へと伝染してゆく。
「何をそんなに怯えておる?」
老人の黄色く濁った瞳がギョロリと蠢いた。
「お前達がワシに食い殺されたのは、もう何百年も昔の話ぞ? 今の若造とて、とっくにこの世の者ではないわ。その死魂が再び、ワシの腹に戻っただけではないか」
言葉を失ったまま、ヴァロフェスはミーシャを振り返った。
強い瞳の少女の顔からは、あらゆる表情が失われていた。
老人の顔を持つ大蠍は、そんなミーシャを鼻で笑う。
「全く、《青い風》の族長が聞いて呆れるわ。生前は仲間を誰一人、守ることも出来なかった小娘が。何十回、否、何百回とワシの腹から抜け出し追って」
「わ、私は……」
ミーシャの声は小さく、掠れていた。
そのか細い肩がカタカタと小刻みに震えているのが分かった。
「何度、喰い直してやっても、すぐ忘れてしまうようだが――、今度こそ、魂の髄まで刻み込んでくれるわ。お前には、お前達には守るものも目指す未来も残っておらん」
ザブザブと水飛沫をあげながら――、湖から這い上がる大蠍。
恐慌状態に陥った《青い風》を尻目に、立ち尽くすミーシャに向かって這い寄ってくる。
「やめろッ!!」
叫び、ヴァロフェスはミーシャを背に怪物の前に立ち塞がる。
「この者達に手を出すな!!」
「あぁ? 何だ、貴様は?」
老人の胡乱そうな眼差しが向けられる。
「人の食い物を横から掠め取るつもりか?」
「一つだけ、答えろ」
全身の細胞が炎のように燃え立つのを感じながら、ヴァロフェスは尋ねる。
「貴様は――、マクバと言う魔術師を知っているか?」
「ん? そう言えば、ワシがまだ人であった時、そう名乗る者と出会ったな。あやつはワシにこう言った。お前はキャラバンに見捨てられ、たった一人、渇きながら死んでゆく。こんなことが許せるのか、とな」
「何と……、答えたのだ?」
「知れたことよ。当然、許せぬ、と答えた。そして、気が付けばワシはこうなっていた」
「そうか」
グッと握りしめられる、ヴァロフェスの拳。
「ならば、貴様は私の同類――、《叫ぶ者》と言うわけだな」
「だから、何だと言うのだッ!!」
激高し、左右の鋏を大きく振り上げる、大蠍。
「邪魔立てするならお前から喰ってくれるわッ!!」
振り下ろされた巨大な凶器がヴァロフェスの頭部目がけ、叩き下ろされる。
しかし――、
「ぎぃやああああっ!!」
おぞましい絶叫とともに黄緑色の体液が周囲に飛び散る。
もぎ取られ、弾き飛ばされたのはヴァロフェスの頭ではなく、大蠍の鋏だった。
「そうか。やはり、そうか」
ヴァロフェスの口元には、半月のような笑み。
「やつが、マクバが生み出した《叫ぶ者》は、私以外にも存在するようだな」
スッ、と拳を構え直すヴァロフェス。
素早く大蠍の懐に飛び込み、流星の如き連打を黒光りする甲殻に次々と打ち込んでゆく。
殺せ殺せ殺せ、欠片も残すな!! 肉を引き裂き、骨を砕いて、血を啜ってやれ!!
ヴァロフェスは己の内側から拍手喝采が巻き起こるのを感じた。
無慈悲で厭らしく、殺意に満ちた暗い力が。
シュッ、と言う気合いの声とともに打ち上げられた膝が老人の顎を砕いた。
苦悶の呻き声をあげ、その巨体を地に沈める大蠍。
「答えてもらおうか。やつは我々のような怪物を生み出し、何を企んでいる」
「し、知るものか」
原型を留めぬほど顔を陥没させた老人の口から血泡が噴き毀れる。
「この数百年間、ワシは一歩も砂漠の外には出ておらん」
「そうか……」
小さく頷き、ヴァロフェスは再び拳を構え直す。
「ま、待て!! ワシを、ワシを殺してもいいのか!?」
苦し紛れとも取れる大蠍の言葉だったが、引っかかるものを感じ、問い返すヴァロフェス。
「……どういう意味だ?」
「わ、分からんか? ワシを殺せば――、死者どもも消えて無くなるぞ?」
ハッとヴァロフェスは息を飲み、動きを止めていた。
それに気を良くしたのか、得意気な口調になって大蠍が続ける。
「考えもみろ、小僧。あいつら、《青い風》どもは、何百年も前にワシが喰い殺し、その魂を取りこんでやった亡霊どもだ。そんな残りかすどもが、何故、生者のように振る舞えたと思う? 全ては、ワシの魔力の影響よ」
「…………」
ヴァロフェスは己の全身に漲っていた凶暴な力が急速に萎んでゆくのを感じた。
そして、声もなく異形同士の殺し合いを見守っていた《青い風》、継いでミーシャに視線を向ける。
この人達が消える?
生き延びようと、ただ、懸命に闘い続けた彼らがこんな怪物と一緒に?
と、その時だった。
呆然と立ち尽くしていたミーシャの顔色がサッと変わった。
「危ない、ヴァロフェス!!」
動揺のせいか、一瞬、反応を遅らせてしまう。
大剣のような尾の先がヴァロフェスのか細い肩を深々と貫く。苦悶の声をあげる間すら与えられず、宙を舞わされ、続いて勢いよく地面に叩きつけられる。
「この愚か者が!! お前のような成り立てにやられるワシではないわ!!」
ゲラゲラ、と嘲り笑う大蠍。
ブクブクと血泡を立てて、引きちぎった鋏がその付け根から再生を始める。
「死ねぇええいッ!!」
グオッ、と風を切って――、巨獣の顎のように大きく開かれた鋏がヴァロフェスに向かって迫る。
こんなところで万事休す、か。
と、ヴァロフェスが奥歯を噛みしめた時だった。
巨大な鋏の前に素早く飛びこむ人影があった。
「なっ……!?」
瞳を大きく見開き、ヴァロフェスは絶句する。
血の滲んだ唇が微かに震えた。
「た、戦いの途中、余所見をするのは素人のすることだぞ……」
蒼白になった顔を向け、悲しげに微笑んだのはミーシャだった。
大蠍の鋏に捕えられた両脇は肉が抉れ、ボタボタと鮮血が滴り落ちていた。
「貴方は生きてここを出なさい、ヴァロフェス」
「…………」
「この怪物を滅ぼして。貴方にはその力があるのでしょう?」
「……しかし、それでは貴女達が」
「私達は消えないわ」
そう言って、もう一度、微笑みを浮かべるミーシャ。
スウーッ、とその全身から生気が、色彩が失われてゆく。
「私達は、貴女に解放してもらうの……」
それが最後の言葉だった。
次の瞬間――、《青い風》の族長ミーシャの姿は、泡のように弾け、消滅していた。
「い、忌々しい小娘がぁッ!!」
喚き声をあげる大蠍。
「どこまでも、このワシを馬鹿にしよって!! こうなったら――」
しかし、その言葉は続かなかった。
正確に言えば――、雷鳴のような轟音にかき消されていた。
同時に老人の下顎、そして大蠍の半身が、血飛沫をあげ、肉片を宙に舞い散らせて砕け散る。
「あべっ!? あべべべべべべべべっ!?」
「ミーシャ達が惨めだと?」
悲鳴にならない悲鳴をあげ、のたうち回る大蠍。
ゆっくりと立ち上がりながら、低く押し殺した声でヴァロフェスは言った。
「今の貴様よりもか? なあ、《叫ぶ者》よ」
血塗れになった老人の顔が恐怖に凍りつく。
再び固く握りしめられたヴァロフェスの拳は、漆黒の炎に包みこまれていた。
「他人の苦痛が好物だと言ったな、貴様」
「ひっ、や、やめッ……」
「私もそうだ」
拳を大きく振りかざしたヴァロフェスの耳に聞こえたのは、子ども達のすすり泣き。
子ども達は唯一の庇護者を、ミーシャの名を呼び続けていた。
それを振り切るかのように、仮面の口元に歪な半月の微笑みが浮かぶ。