仮面の男は、夕闇に沈む森の小路を滑るように進む。
西の山岳が血のように赤く染まり、草叢では兎をくわえた狐が、用心深そうな目つきで巣穴へと戻ってゆく。
仮面の男が立ち止ったのは、丸太を組み、屋根に藁をふいた小さなあばら屋。
それは今にも崩れ落ちそうな廃屋だった。
その戸口に塗りたくられたのは、今はすっかりと干からびた馬の糞。
それは、罪を犯し、村や町から追放された者の住居であることの証明だった。
私の仮面と似たようなものだな……。
口元に自嘲の笑みを浮かべながら、男は赤錆びたノブを回す。
つーん、と漂ってくる湿った黴の臭い。
しかし、それを気にかけることもなく、仮面の男はあばら屋の中に入ってゆく。
床板に空いた穴をよけ、今にも朽ち果てそうなテーブルの傍に置かれた安楽椅子に歩み寄った。
初めてこのあばら屋に仮面の男が足を踏み入れた時、椅子には、恐ろしく年を取った女の遺体が横たわっていた。
天井には、しわがれた泣き声をあげながら飛びまわる、彼女の死霊の姿があった。
生前、女は占いで生計を立てていたらしい。遺体の首や手足には、幸運を呼ぶとされる、伝統的な護符がいくつもぶら下げられていた。
もっとも、その効力は疑わしい限りだが。
女が追放された理由は、大方、他人の家畜に呪いをかけたとか、妻子持ちの男に誘惑の魔法をかけたとか――、とにかく、そんな疑いを周囲の人間に抱かれたのだろう。
仮面の男は、女の干からびた遺体をこのあばら屋の裏手――、彼女の家族のものと思しき、墓の隣に埋めた。
ゾッとしない作業ではあったが、女の魂はそれでこの世の縛めから解き放たれたようだ。
おかげで男は、頭上で喚き散らかされることもなく、静かな隠れ家を確保することができた。
「…………」
安楽椅子に腰をおろし、ゆっくりと上半身を反り返らせる。
窓から差し込む、薄ボンヤリとした夕陽がクモの巣にまみれた天井を照らす。
今にも崩れ落ちてきそうな梁の上を、鼠の親子が忙しげに走ってゆく。
「何だよ、ヴァロフェス。帰ったなら帰ったと言えよ」
テーブルに置かれた木偶人形、オルタンの木製の瞼がパカッと開いた。
「偵察、ご苦労さん。で、どうだ? 何か分かったか?」
「…………」
「あっ、そう。そりゃ残念だ」
クルクル、目を回しながらオルタンが言った。
「それにしても陰気クセー場所だな、ここは。……まあ、お前にとっちゃ人が寄りつかない、都合のいい隠れ家だろうがよ。俺様みたいな繊細な心の持ち主は、気が滅入っちまう」
「……騒がしい場所は嫌いなのだ」
低い声で仮面の男――、ヴァロフェスは答える。
「ここは子どもの頃、私が暮らしていた場所によく似ている」
「お前、座敷牢みたいな場所に閉じ込められていたのか?」
「…………」
「急に黙り込むなよ。お前のガキの頃って、一体、どんな感じだったんだ?」
オルタンの問いかけに、ヴァロフェスの口元が微かにひきつる。
「……お前に話す義理はない」
「おいおい、そんな言い方ねーだろ? 俺とお前の仲じゃねーか」
ひひっ、と卑しく笑うオルタン。
「そうだな。例えば――、可愛いイルマちゃんのこととか? 夢にまで出て来る女……」
なんだろ、というオルタンの問いかけは途中で途切れた。
疾風のように起き上がったヴァロフェスの右手が、人形の木製の喉を掴んでいた。
「……一度しか言わぬ。だから、よく聞け」
ぐえっ、と汚い喘ぎ声をあげるオルタンを乾麺の奥の暗い瞳が射抜いた。
「イルマの名を口にするな」
低く、有無を言わさぬ口調だった。
返事を待たず、ヴァロフェスはオルタンを埃だらけの床の上に投げ捨てる。
「ひ、ひでぇヤツだな」
恨みがましい声でオルタンが言った。
「俺様が身動きできねぇのをいいことに……。お前、ろくな死に方しねーぞ?」
「ああ、知っている」
何を今さら、とヴァロフェスが頷いた時だった。
コンコン、と。
外から扉を叩く音が響いた。
そして――
「こんばんわーっ」
この陰鬱な場所には相応しくない、明るい声が響いた。
「あのー、ちょっとお尋ねしたいことがー。ここに真っ黒な、鴉みたいな衣装の人、来ませんでしたーっ?」
舌打ちし、安楽椅子からと跳ね起きるヴァロフェス。
素早く扉を開くと――、そこには見覚えのある、子どもが立っていた。
森で《叫ぶ者》の餌食となるところだった、赤毛の娘だ。
「あっ、あの……」
もともと円らな娘の瞳が、ヴァロフェスを見上げ、更に大きく見開かれる。
「あの、あたしは、その、怪しい者じゃなくて――」
娘の言葉が終るよりも早く、ヴァロフェスはそのか細い腕をつかみ、あばら屋の中に引きずり込んでいた。