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20 601/2003

「新品のカメラにしたんだね」

 と先輩はブラックコーヒーを啜りながら私の首元を見て云った。

 ゆったり目に編曲されたショパンの幻想即興曲が店内に流れ、緑のエプロンと黒い制服を着たおしゃれな店員がお盆を右手に歩き回っている。私は窓際のアンティーク調な木造椅子に腰かけ、先輩と共に食事をする。

「最新のものを買いましたよ」

「データは無事だったのよね?」

 私は頷いた。

「すぐに知り合いの子が私とカメラを助けてくれたので、無事で済みました」

「そういう所、おっちょこちょいなんだね。目を離すのが怖そうだ」

 先輩は私を見て右手に持っているフォークをぶっきらぼうに振った。

「そういう先輩は、最近どうなんです?」

「どう?」先輩はきょとんとする。

「最近の出来事とかですよ。あまり取り立てて訊いたりしなかったので」

「変わらずと言えば変わらず、でも変化は確かにあったとも言える」

「曖昧な言い方ですね」私は言ってから水を一口飲んだ。

「難しいんだよ、漫画業界も」

 先輩は書店で働きながら漫画を描いていた。

 ジャンルはBLもの。私は別に漫画自体そこまで拘って読んでいるタイプではないので、そういう事を打ち明けられたときはさほど驚かなかった。とはいえ、ジャンルは違えど『表現者』という括りで似た傾向を持つ私達は、私が書店のバイトを辞めた後も交流をする仲になっている。

 ただし、先輩という呼び方が板についているため、私は今でもそう呼んでいる。

「そうなんです?」

「うん。ジャンルがBLだとね、なおのことそれだけで生活するのは難しいんだ」

「絵が上手いのに?」

 先輩はコーヒーを一口飲んだ。

「絵が上手い奴なんか、そういう業界に入ったら山に生えてる杉の木くらい沢山いるんだよ」

「わざわざ杉の木なんて表現をするということは、カ粉にも何か比喩が?」

 私はシニカルな態度をとる先輩に真意を訊いた。

 先輩は息をついた。

「無差別な攻撃として機能している」

 どうやらあまり漫画は上手くいっていないようだ。

 実際、漫画は絵柄以外にも技術が求められるし、描いているジャンルによっては埋もれていくことが多いと聞く。苦労しているのだろう。

「まあでも」先輩は窓の外を見る「一番はあの小惑星のせいかもね。私がこうも嫌味なのは」

「小惑星?」

 私はその単語を口に含んで脳内検索をかけた。

 先輩はケーキを崩しながら語り始める。

「ああいうのに弱いんだ。私は。どうもそういう災害的なのが怖くてね」

「……衝突」

 私はやっとその単語を思い出し、眉をひそめて俯いた。

「私も天災は得意ではありません。別に、身近な人がそれで亡くなったという訳ではありませんが、……大震災は私の心の脆弱性を突いてきますから」

 きっと大人になったから、子供の時よりもある程度は割り切る事が出来る。

 でもそれでも、眼下にそれで苦しんでいる人が現れたら、私は痛苦な感覚に苛まれるだろう。

 先輩は間を置いてから謝罪した。

「……ごめんなさい。ちょっと配慮が足りてなかった。不安が先行してしまったわ。新しいカメラを買ったってことは、写真家としては順調なの?」

 先輩は私の愁然な気配を感じ取ったのだろう。話題を変えてくれた。

「そうですね。ありがたい事に」

 私はえくぼを作って微笑んだ。

「大成といっていいのか分からないけど、上手く行っているようでうれしいわ」

 ささやかな賛美を正面から、素直に受け取った。

「何とか食っていけていますからね。その分、意外と体力仕事が多くて骨が折れそうです」

「川に滑り落ちたくらいだから、いつか本当に骨が折れちゃうんじゃない?」

 先輩の言葉に私は笑い出し、微笑みを交わす。

 私はふと本来の目的を思い出した。

「そういえば水族館の件だけど」

「あ、そうでしたね」

 私は先輩に来週の水族館について尋ねていたことがあった。

 それは先輩がかつて、その水族館の職員として働いていたことがあったというのを知っていたからだ。

「近場のデートスポット、でしたっけ?」

 先輩は悪戯に笑う。

「デートじゃありませんよ」

「でも結局その子と二人っきりなんでしょ?」

 村雨と中村くんは当日、予定があるそうなので来ないらしい。

「遊びに行くだけですって」

「男女二人で」

「もう」

 私はほっぺを膨らませて不機嫌そうにした。

 先輩はくたびれた右手を振って得意げな顔を浮かべた。まったく悪戯な人だ。

「だってわざわざ近場の喫茶店とか絶景ポイントを有識者に聞いてくるのは、もう遊びに行くの範疇を超えている気がするよ」

 相手に楽しんでもらうために計画を立てるのは、やはり張り切りすぎだろうか。と私は逡巡する。

 私は首を振る。

「村瀬くんにお礼がしたいんですよ。川に落ちた時、すぐに自分も濡れながら助けに来てくれましたから」

「つまり、彼を想っての行動なんだ」

 私はぷい、とそっぽ向いた。

「ごめんごめん」と先輩は引き際を弁えて右手をたてた。そして先輩はスマートフォンを取り出す。

「近場で言うならこのカフェはいいと思う。値段も安いしボリュームがある」

「なるほど」私も自分のスマートフォンで調べながら吟味する。

「それとこの丘は登っておいた方が良い。街が一望できる穴場スポットだから」

「ふむふむ」私は丘の名前を調べてメモ帳に書き込む。

「そして最後に、水族館」

「最後?」

 私は首を傾げた。先輩は人差し指を立てる。

「そう。この水族館は最後に行った方が良い。あの水族館、一通りみると凄い満足感があるんだけど、ゆえに、これを〆にした方が気持ちよくその日を終えられるんだ」

「……なるほど、それは先輩に聞かなきゃ分からなかった事ですね」

 水族館なんて一人で行った事が無かったから知らなかった。

「という感じだね。何か質問はある?」

「今のところはありませんね。こんな具合で当日は大丈夫そうです」

「ならよかった」と先輩はやっと最後の一口を食べ終わった。「待たせちゃったかしら?」

「いえいえ、前々から食べるのだけは早かったものですから」

 二人で会計をすませて店を出て、先輩の車に一緒に乗り込んだ。

 でもその前にふと駐車場から見たお店の外観が気になって、私は一枚写真を撮った。

「見せて見せて」

 シャッターの音に引き寄せられて先輩が身をよじって来た。

 私は撮影した写真を先輩に見せた。

「へえ、綺麗だね、こう見ると」

「別に加工とかしていませんよ?」

「そうだけど、なんていうかな。特別に惹き込まれる写真って、風景そのものでなく撮影者の感性が反映されているから惹き込まれると思うんだよね」

「そうですかね?」私は首を傾げる。

「そうだよ」

 先輩は私の肩を叩いた。


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