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21 602/2003

 春が例年より早く終わりそうな気配があるその日、私は友くんと先輩に教えられたカフェに行ってピザトーストを食べ、丘に登って一望千里の眺めを堪能した。珍しく着ている白いワンピースを仄かに掠る春風に揺らしながら、次に水族館へと向かった。

 水族館ではルートに従って薄暗い道を通る。そして青い世界を巡る魚に目を奪われ、何枚か仕事用のカメラで写真を撮った。

「どうせならさ」

 友くんの提案で通行人にお願いし、私と友くんのツーショット写真を私用カメラで撮ったりもした。

「本当に綺麗だね」

 友くんは水族館に感動している様子だった。聞いていた通りそれなりにボリュームがあって、結局、全てのエリアを回るのに二時間くらいはかけてしまった。私も友くんも美しく幻想的な海底の様子に釘付けになったのだ。

 歩き疲れて、私は十メートルほど高さのある大きな水槽の前にあったベンチに腰をかけた。慣れないヒールも、疲労具合に加担している。

「――――」一瞬、何故か急激に眠気がきて私はこくりと首を傾げてしまった。

「今日はたくさん歩いたね」

 少し霞んだ視界の端から、友くんがやってきた。

 友くんは遠くの自販機で麦茶のペットボトルを買ってきて、私に差し出した。

「ありがとう」

 私は受け取って口をつけた。

「丁寧に計画まで立ててくれて、うれしかった」

 友くんは私の横に座る。私との間にひとり分の間を空けて。

「溺れかけたところを助けてもらったからね。命の恩人だよ」

「当然のことだよ。とはいえ、僕はそれだけの恩を君に売ったんだね」

 友くんは前方の水槽をうっとりしながら呟いた。

 私も前方の水槽を、うっとりとしながら見つめた。

 しばらくの間、沈黙が私たちのまわりに降り立つ。

「ねえ」

 友くんの言だ。私は振り向いた。

「僕と付き合ってくれませんか?」

 彼はのけぞり、両手を椅子に置いてあっさりと言った。

「…………」

 きっと私は、ずいぶん前からこうなることを察していた。

 そう思ったのがいつだったかはわからないけれど、彼が私に好意を持っていて、そして、私も彼に好意があることは、さほど驚くことではなかったのだ。

 強いて言うのなら、タイミングがなかなか決まらなかった。写真みたいに、ぴったりと収まる瞬間が、なかなか来なかった。

 私はお尻を上げ、彼との間の空白を埋めた。

 心を覆っていた『優しさ』という名の錆が、彼の隣に座ったことですべて崩れ落ちたと感じた。それは、私の中で、この人の横にいた方が『優しくなれる』という証明だった。

「ずいぶんと時間がかかったね、友くん」

 私は水槽をうっとりとしながら見つめた。

「そうだね。でも、これも今にして思えば一瞬に感じるよ」

 彼も水槽を、うっとりとしながら見つめた。

 こんな時間が永遠に続けばいい。私はそう思った。

 けれど、

「……君に謝らなければならない」

 やっぱり、時間は残酷だった。



 村瀬友は、諸事情で名前の言えない研究所に配属されるそうだ。

 その研究所の概要は話せないが、人手が足りないから声がかかったという。それは世界をより良くする欠かせない研究をしていて、その研究所はアメリカにあるらしい。

「僕はアメリカに行くことになった。もちろん、君が世界で一番大事なのは変わらない」

「…………」

「でも、僕が行かなければ世界がとんでもないことになる。僕はこの世界、風景を守りたいんだ」

 彼の言葉がするすると頭から抜け落ちてくれれば、どれだけよかったか。

 でもそうはならず、私は彼の話を一言一句こぼさずに拾い上げ、そして、私は挙句の果てに、納得してしまった。

 彼を引き留めたい。

 そんな感情を表に出すことはできなかった。

 隣にいてくれるだけでよかったのに。

 どれだけ落ち着くか、どれだけ悲しまずに済むか、私はもう知ってしまっていたのに。

 村瀬友は、アメリカに行く。

 永遠の別れではない。スマートフォンのアプリで、メッセージなら届く。通話もできる。

 でも、彼の体温はもう感じられない。

 私はそういった失意を表に出すことはできず、水族館を出た。

 彼に壊れたカメラを手渡して別れ、一人で駅に向かった。

 驚くほど、足元はまったくふらつかなかった。車の通過音もはっきりと聞こえた。お腹もぐうと鳴った。駅の前で、黒いコートと山高帽をかぶった細身の男が立っていた。私は彼に名前を尋ねられ、こう言われる。

「私は村瀬友と同じ研究所の職員、『斎藤楓(さいとうかえで)』といいます」

 訊いてもいないのに、勝手に自己紹介を始めた。

「彼についてお話することはできません。ただ、彼がこれからどういった功績を残すのかは、だいたい知っています」

 彼の言葉も、

「今日のうちにすべてが明らかになると思います。もし何か気になれば、こちらにご連絡ください」

 聞き逃すことなく、覚えてしまう。


 その日の夜は、とても騒がしい一日だった。

 街では混乱で暴動が起き、インターネットでも根も葉もない憶測が、目で追えないほど速いスピードであふれ返った。

 だがその中でただひとつだけ、いつもしっかりとしたネット記事を投稿しているアカウントが、他の人と同じような憶測めいたことを発信しているのが目に留まった。


 機密情報の漏洩があった。英文を雑に翻訳した文書が出回る。



 



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