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22 801/2003

「お疲れ様」

 部屋から出てきたのは村雨だった。

 私は洗い物を終えると、手を伸ばしてきた「陸」を抱きかかえて背中をさすり、「よしよし」とささやく。

 暗いマンションの一室で、私は村雨夫妻の子どもの世話をしている。

 子供の名前は「村雨陸(りく)」。中村が悩みに悩んで決めた名前である。この子は機密情報の漏洩時、すでに村雨のお腹の中にいた。

「陸、おいで」

 陸は育ち途中の短い足で村雨に向かっていく。

「今日はどうだった?」私は陸を抱きかかえている村雨に尋ねる。

「ダメだった」

 村雨はきっぱりと言う。そして玄関に続く扉を見つめた。

「食料も心もとない。安全な水すら……」

「そっか」

 部屋の電気はつけることができないし、カーテンも開けてはならない。まるでこの部屋に子どもがいることを隠すようにしている。閉塞感にもがきながら、私たちは暮らしている。

 あれから二年が経った。

「慎太郎(しんたろう)がさ」

 村雨は中村の下の名前を口にする。

「サバイバルについての書籍を読みあさっている。もう一ヶ月もあれば、物資を目指してここを出られるかも」

「読むだけで行けるのかしら?」

 私は懸念を述べる。

「分からないけど、私たちよりはるかに体力がある慎太郎だから、信じるしかない」

 村雨は真面目な顔で言った。

 真面目なことが似合わない人だったのに、子どもが生まれてから彼女はとても真面目になった。もちろん、子どもだけが理由じゃないけれど。

 今、日本は暴徒であふれかえり、無意味な殺戮や暴力が他者に振るわれていた。

 小惑星衝突の確定によってもたらされた混乱の余波は、この世界をもう後戻りできない段階まで踏み込ませた。警察も暴徒に返り討ちにされ、挙句の果てに事態鎮静化のため自衛隊が街に出たとき、町中で人のタガが外れる音がした。

 自衛隊の基地に千人以上の暴徒が各々の武器を持って乗り込んで行き……その後のことは、まだはっきりと知らないが、その襲撃以降、自衛隊の機能は完全に停止した。

 この国で安全な場所はもうない。安定を求めて物資を集めても、誰かに盗まれるか、最悪の場合は殺される。一時も気が休まらない。ここまで異常な状態になったのは、人類滅亡の事実が唐突に散布されたからに他ならなかった。

「陸のことは私が見ておくから、あとは自由にしてくれて構わないよ」

 村雨は短く揃えた黒髪を、窓から入る風に靡かせて云う。

「本当に大丈夫?」

 私は尋ねる。

「私が我を曲げないこと、あった?」

 私は村雨の言葉を信じて、私はマンションの一室から出た。

 廊下に出ると、どこからか焦げ臭い香りが鼻を突いた。

 遠くで黒煙が上がっている。ふと周りを見ると、いま立っているマンションの一部が少し崩れかかっていた。これは、一年前の地震の影響だ。

「モリの延焼が止まらないな」

 突然そう言って近づいてきたのは、村雨慎太郎だった。

 ただし、私は中村で慣れてしまっていたので、今でも中村くんと呼んでいる。

「お疲れ様、中村くん。何か手伝えることはある?」

「大丈夫。ないさ」

 中村くんは汚れた紺色の作業服を大気に靡かせ、右手を腰に当てて言った。

「よかった」

 私はえくぼをつくって微笑んだ。

「こんな世界になっちまってから、まったくと言っていいほど、いいことがない。でも、陸がいるからさ、俺はいま不幸じゃねえんだ」

「陸くんは可愛いからね」

 私は階段に座って首を左右に振り、足をばたつかせる。

「ああ、すっげえ可愛い。だから本当はこんな世界じゃなくて、もっとまともで平和な世界を見せたかった」

 中村くんは遠い目で街を見つめる。

「私も同じだよ」

 平然としているように見えるが、この一言には、ずいぶんと重みがある気がした。

「村瀬はいま、何してんのかなぁ」

 この混乱が起こる前にアメリカに渡っていた友くんとは、しばらく連絡が取れていない。スマートフォンで何通かメッセージを送ったが、既読にすらならない。とはいいつつ今では電力も貴重なので、しばらくスマートフォンの電源は入れれていないが。

「どうだろうね」

 私は風を額に受けながら呟いた。

「無事であってほしい」という言葉は、胸に押し込めた。

「中村くんは無理してない?」

 私はマンションの廊下から街を眺める中村くんを見た。彼は苦笑する。

「無理か。これが無理なのかも分からねえんだ。でも、生まれたての赤ちゃんがいる父親って、多分このくらい忙しいんじゃねえかな」

「きっとそうだよ」

 私は首にかけたカメラを持ち上げる。

 最新式だったこのカメラは今も使えている。仕事でよくバッテリーを持ち歩いていたし、使う場面にも気をつけているから、この二年間、まだ一度も充電切れになっていない。

「ん?」

 パシャ。

 中村くんを左側に置いて、青空を撮影した。

 遠くの方で黒煙が上がっているのは嫌だったけど、物思いにふける彼を写真として残したい一心で、私はボタンを押した。

 黒ゴマのような烏が中村の頭の上で、四羽、空を舞っていた。

 ぽつりと中村くんが言った。

「……どうして、こうなっちまったんだろうな」

 その脱力した言葉に、私は喉を詰まらせたような気持ちになる。

「どうしてだろうね」

 私こそ聞きたかった。なぜ、この世界はこんなにも時間の経過が早いのだろう。どうして、優しい時間がこんなにも少ないのだろう。

 私がもし宇宙に行けるのなら。私がもし、小惑星を破壊できる超能力でもあれば。

 そう考えても、一般人の私たちにはどうすることもできなかった。

 遠くの方で大きな銃声がして、死の残響が私の耳にしばらく住み着いた。頭をいくら振っても、その残響は収まることを知らなかった。


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