深夜、私がリビングのテーブルに座って用具の片づけをしていると、村雨が目をこすりながら反対側に座った。
「おはよう?」
私が言うと、彼女は譫言のように同じ言葉を返してから、
「ねむれなかったぁ」
村雨はテーブルに突っ伏して、ごにょごにょと猫のように唸っている。
「お疲れ様だね」私は物資を分けながら慰める。
「……本当にお疲れ様なのは、慎太郎だよ」村雨はこもった声で云う。
中村くんもそうだけど、村雨もそれなりに疲れているだろう、と私は心で思う。
私は小柄で力がない。鍛えようと思えばできるけれど、時間がかかるし、それよりも私には陸くんの世話を引き受けたほうがいいようだった。
中村くんは率先して外に出て物資を探してくれるし、村雨も他のマンションの部屋をこじ開けて中のものを物色している。結局、なるようになって、私はこの役割に落ち着いた。
二人に負担をかけている自覚はある。でも、陸くんの世話は今のところ私しか手が空いていない。幸い、陸くんは大人しい子だ。遠くで目を離さずにいるだけでいい。
「本当に私にできることはないの?」
私は尋ねて、確かめる。
「ないよ。陸の世話で十分。今の私たちには、陸の世話をみる元気がない」
「陸くんは大人しいよ」
私は情実に囚われ、少し前のめりになる。
「でも陸のために、もっと安全な場所を探さなきゃいけないの」
村雨は緩慢とした声で続ける
「私も女だけど、力だけはあるわ。あんたより多少は機敏に動ける。安心して。あんたには本当に助けられてるから、そのままでいてほしいの」
「でも、危険な場所に二人だけで向かわせるのは……」
「危険な場所に近い私たちのそばに、陸は置いていけない。違う?」
「でも! 陸くんだって、本当は村雨といたいはずだよ」
私は柄にもなくしつこく叱責してしまった。言ってから、外の世界にある危険の大半は、狂気に落ちた人間によるものだということを思い出す。
思っていた以上に、私は冷静さを失っていた。様々な不幸と立て続けに合った災難が、私の情緒を吹き荒していた。
「……ごめん。私、少し感情的になった」
すぐ息をついて冷静になり、私は溜飲が下げて謝罪する。
「感情的になるなんて珍しいじゃん?」
村雨は剽軽に零す。
「今の世の中で一番怖い存在は、同じ種族であるはずの人間だよ」
村雨は仄かな諦念を覗かせた。
「恐怖に負けて、負けて、負け続けている。私たちみたいな、生にしがみつく覚悟がある人たちですら蹴落として、醜い憎悪を向けている」
村雨の悄然とした語りに、私は彼女の純朴な澄明さが損なわれていることに気が付いた。
「何か見たの?」
私は前のめりに尋ねる。
「言えない」
村雨はきっぱりと断った。
「そして、あんなものはあんたに似合わない」
「私?」私は絞り出すように言う。
「そう」村雨は右手を伸ばし、私の左手に触れる。
「あんたは変わらないでほしいの」
「どういう意味?」
「そのままの意味。ねえ、ハグしてもいい?」
私は頷いた。
村雨は椅子から転げ落ちて私に抱きついた。このくらいのスキンシップなら、学生時代によくやられていたなと思い出した。
「結局あんたって」耳元で村雨がささやく。
「村瀬の野郎と付き合っているんだっけ?」
私は頷く。
「そっかぁ。でもハグはできてないでしょ?」
私は頷く。
「じゃあ、このあたたかさと心地よさは、まだ私の独り占めってわけだ」
私は、頷く。
しばらくそのままにしていると、村雨は寝てしまった。
私は村雨を布団に戻し、掛け布団をかけてあげた。
そのとき、同じ布団で寝ている陸くんが体をよじって、村雨の手を握った。私は中村くんに見せようと思い、静かに親子の写真を一枚撮る。
写真の中で村雨は、ほんの少しだけ笑っている気がした。