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39 1230/2003

 私はいつものように、先輩に会いにきた。

「おはようございます」

 問いかける。

 先輩は相変わらず、人差し指と親指で挟んだ沈黙を私との間にこつんと置いた。

「今日は雨ですね」

 モール内に入る日光が陰って、本来なら人々の喧騒でこちらまで届かないであろう雨の演奏が、二階のこの場所まで届いていた。雨はとてもありがたい天候である。

「雨から水を集めて飲み水にする試みを、村雨くんと長谷川さんが知恵を出し合ってやってくれているんです」

「――――」先輩は闇と一体化してこちらをじいっと見てくる。

「飲み水くらいは気兼ねなく飲みたいですからね」

 私は微笑を添える。

「最近、南ちゃんがカメラに興味をもったんです。私の事を見て触発されたみたいで」

 私は先輩と話している時を思い出して、出来るだけ口調を真似てみる。

「その時、佐々木くんがわざわざ三階の家電量販店に行って、カメラを取って来てくれたんです。そしてサプライズ、って彼女に渡しました。とても喜んでいましたよ。南ちゃん。本当にお兄ちゃんが出来たような感じでした。子供らしい天真爛漫な笑顔が、太陽のようで」

「――――」小声で、かすれたような嗄声が微妙に鼓膜を届いた気がする。

「みんなみんな、前を向き始めました。怖がって悲しんでばかりだったみんなが、一丸となったんです。先輩。先輩も一緒にどうでしょうか?」

 私はふと足元をみた。

 そこには自分が昨日、先輩の為に置いていった食料が食い散らかされていた。

 ご飯を食べる意識があるのなら、廃人というわけではないのだろう。

「先輩」

 私は暗闇をみつめた。

 暗闇も、まるでこちらを見ているかのような感じがした。

 終わりのない暗闇が遠くまで続いていて、呑み込まれて捕食されると二度と帰ってこられないような深淵が、どこまでも、どこまでも伸びている。見つめるほど意識は肉体から引き剥がされ、闇の奥底にさらわれる感覚に苛まれ、心が不安を訴える。暗黙のベールが、人を生から遠ざけ、死を誘っている感じがあった。

 タナトスの誘惑。先輩の意識を封じ込め、暗澹たる思念を見え隠れさせた。

 そう、先輩が溶け込んでいる闇の中から、時よりそんな煩雑な影が見え隠れしている。先輩は訳もなくああなっている訳じゃないのだ。

「――――」今度ははっきりと、かすれた声が聞こえた。

「聞きたくない」

 聞きたくない。

 先輩の小さな拒絶の言葉は、

 私の心臓を鷲掴みにしてしばらく放してくれなかった。


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