春が例年より早く終わりそうな気配があるその日、私は友くんと先輩に教えられたカフェに行ってピザトーストを食べ、丘に登って一望千里の眺めを堪能した。珍しく着ている白いワンピースを仄かに掠る春風に揺らしながら、次に水族館へと向かった。
水族館ではルートに従って薄暗い道を通る。そして青い世界を巡る魚に目を奪われ、何枚か仕事用のカメラで写真を撮った。
「どうせならさ」
友くんの提案で通行人にお願いし、私と友くんのツーショット写真を私用カメラで撮ったりもした。
「本当に綺麗だね」
友くんは水族館に感動している様子だった。聞いていた通りそれなりにボリュームがあって、結局、全てのエリアを回るのに二時間くらいはかけてしまった。私も友くんも美しく幻想的な海底の様子に釘付けになったのだ。
歩き疲れて、私は十メートルほど高さのある大きな水槽の前にあったベンチに腰をかけた。慣れないヒールも、疲労具合に加担している。
「――――」一瞬、何故か急激に眠気がきて私はこくりと首を傾げてしまった。
私は写真の世界に入った「――――」。
周囲を見回す。そこは、水族館のようだ。まだ人々の気配で満ちていて、戦々恐々とした暴徒たちが居ない、平和な世界。
私は実体を持たずに彷徨っている。この水族館の過去を、月から通して見つめている。
私はふわふわと移動して、彼を発見した。
そこにいる彼は自動販売機で飲み物を購入し、私が座っているあの椅子へ戻ろうと体の向きを変えた。
私は必死に彼に向かって前進し、やっとの思いで声を張り上げた。
「友くん!」
彼は止まった。
声が届いたのか分からないが、彼はそこで立ち止まった。
「聞こえる?」
私は久しぶりに友くんの近くにいる。心がぼうぼうと炎を吹いて、気持ちが焦がれて熱くなった。彼は首を回して私の方を見る。
「……幻聴?」
「違うよ」
私は間髪入れずに答える。
「え?」
友くんは驚いて一歩後退る。
「聴いてほしい」私は言う。
「――志摩市で働く「車さん」という会社員の男性を探し出し、方舟計画に参加させること。そうしなければ方舟計画は終盤で思いがけない問題点に阻まれ、誰も助からない結果になる」
私は最後の写真で聴いた情報を伝えた。
「ま、待って、どうして方舟計画の事を? あなたは誰なんだ?」
彼は私の幻聴に戸惑っている様だった。私は続ける。
「私は――」
でも、そこで口を止めてしまった。
「……? よく聴こえなかった。教えて、あなたは誰?」
私は脳が停止する。誰であるか、自分が一番知らなかったからだ。
何故なら私は未だに自分の名前を思い出していない。
私は私がどういう名前だったのかすら分からない。
「その、えっと……」
私はしどろもどろになる。
「本当によく聴こえないんだ……声がとても歪んでいて、誰かも分からない」
私は目を見開く。そこには、私が愛した人が立っている。
ずっと抱きしめたかった彼が、ずっと会いたかったその人が、ずうっと語りたかった口が、目の前にある。あどけない童顔、爽やかな髪型、細い体。私の身長じゃとても、背伸びしなければ届かない小さな唇。
私は彼に恋をした。私は彼と愛し合った。でもその時、私の脳裏に斎藤楓の言葉が想起される。彼は確かに、あの記憶の中でこう云った。
――僕はあの水族館で村瀬がそいつと幸せになろうとしたときも、こんな高揚をした気がするよ。
つまりこの水族館に斎藤楓で居て、村瀬友の告白を見てしまった。
それがトリガーとなり、あの暴挙を行ってしまった。
では。
あの時、彼が私に告白しなかったら?
「――――」
分かっている。もし過去を変えた時、何が起こるか……最後の写真で彼は言いづらそうに告げていた、時空連続体の歪みによって引き起こされる過去改変の結果について。
世界軸の分岐。私が超人(超越者)になり、月に飛ばされ、人類が滅んだ。
でなければ私はこうしてこの記憶を手綱として過去に飛べなかった。
そして過去を変えた時、未来が変更され、私が月に行かない未来になったとしたとき、今、どうやって過去に私が飛んで話をしているのかという矛盾が生まれる。
これは、一種のパラドックスだ。だから恐らく、ここで過去を変えたところで私は月で独りぼっちのままである。人類が滅びた世界が、もう元に戻る事はない。ただ、『滅んだ世界』があったからこそ、『滅びなかった世界』が生まれる。
そうだ。私は救われない。ここで私が彼に未来での出来事を伝え、無事に『滅びなかった世界』が生まれても、私自身はこのまま『滅びた世界』に残り続ける。
残って孤独を噛みしめ、ひとりで灰になる。――それでいい。それでいいんだ。因果を捻じ曲げ、世界を変えて、誰かが生き残るのなら。例え別の世界でも、村瀬友が救われるなら。
思い出せ、私の名前を。届けるんだ、この運命を。
ヒントはあったはずだ。あの二千三枚の思い出に、刻まれている――。
1 1/2003
ガタガタと車は品性なく揺れる。例えるなら洞窟を走るトロッコのようだ。田舎の道という整備のせの字も知らない場所だから道が荒く、こうして車が激しく上下左右に揺れている。おまけに時刻は深夜一時であたりは深い漆黒のベールに包まれており、いっそう『洞窟を走るトロッコ』が適した例えになりつつある。シン林を進めば進むほど道は険しくなり、必要以上に座席が跳ねた。
【森】林
19 400/2003
という友くんの声は、私が足を滑らせたことで飛び出た。私はずるずると体を擦って、桜のハナびらが浮かぶ川に落ちてしまった。その時、カメラも川に落とし、壊してしまう。でもそんなことより、少し緑がかった水の中から見るハナびらは、西ヨウの社交界で色とりどりのドレスが回った時に広がった光景を、俯瞰で見ているような美しさだった。
【花】びら
西【洋】
52 1555/2003
遠くにあるサキの上に真っ白い灯台が機能を失って佇んでいる。
【崎】
「友くん」
私は息を呑んだ。
「私、森崎洋花(もりざきようか)に告白しないで」
私は名前を取り戻した時、どうしてデージーと呼ばれていたのかも得心がいって、少し口元を綻ばせた。
*
現実の乱れ