「……素描しにくい」
「まあ、この暗さじゃねぇ」
とある快晴の日の夜。僕とレンは、空に浮かぶ月とアマロ湖に映る月、二つの月を眺めていた。
わざわざ夜中に屋外へと出た理由は、彼が湖と月の絵を描きたいと言い出したからだ。
「ランプを点けるとこの光景が見にくいし、暗いと絵が上手く描けない。もどかしい」
「それでも僕から見れば全然上手なんだけどなぁ……。にしても、本当に満月の日を待たなくてよかったのかい?」
「あれは絵じゃなくて、思い出に残しておくべき光景。何度も見直してしまえば、感動も薄まる」
そう言って、レンは湖部分の素描を開始する。
満月ではなく、欠けた月を映した湖を描いているのは、彼なりの美学から来るもののようだ。
「なるほど、確かにそうかもしれないね。にしても、君くらいの歳で信念を持っているのはすごいなぁ。僕なんか、いまでも揺らぐことだらけだっていうのに」
満月祭の時より弱々しい黄金の光が、僕たちに降り注ぎ続けている。
草原に寝転び、天上に浮かぶ月を見上げることにした。
「……信念なんかない。僕は、誰かについて回っているだけだから」
月から目をそらしてレンへと視線を向ける。
普段の彼であれば自信たっぷりの様子を見せているというのに、今日はどうしたのだろうか。
「今回の旅は、姉さんが行くって言ったから、僕も行くことにした。もちろん、この大陸に興味はあったけど、姉さん程じゃない。兄さんを探すっていう目的も、どちらかと言うと反対だった」
その言葉を聞き、驚いてしまった。
似ていない姉弟だとは思っていたが、まさかここまで相反しているとは。
となると、彼がこの大陸に来た目的は、ほとんどないということなのだろうか。
「一応ある。描きたいと思える素敵な光景が見られるだろうし、歴史も知れるから」
「ああ、そういえば、図書館に行ったときに歴史書とかを読んできたって言ってたっけ。君はそっちの方に興味があるんだね」
レンは振り返ることもせずにコクリとうなずき、素描を続ける。
「本当は、『アイラル大陸』各地の集落を周って、ホワイトドラゴンの歴史を調べてみたかった」
「なるほど……。じゃあ、いまの生活には不満があるのかい?」
「それは違う。姉さんについてきて良かったって思ってる」
絵を描く少年は、天上の月を見上げた。
その表情は悲しそうで、この美しい景色を見る時の表情とは思えない。
「自分の意思を尊重していたら、ソラさんとナナさんに会えなかったし、いろんなことを教えてもらうことはできなかった。姉さんと、二度と会えなくなってたかもしれない……」
レンの肩が、小さく震えているように見える。
帰ってこない兄に加え、姉も帰ってこなくなっていた可能性を考えれば、恐ろしくなるのは当然だろう。
「僕は、自分の意思で行動してない……。ただ、誰かの行動に合わせているだけ――」
「それでもいいんだよ」
レンが言い終える前に、言葉を挟みこむ。
僕も誰かの指示、行動に付き添って活動をすることはある。
現在作成中のモンスター図鑑は、その最たるものだろう。
冒険者ギルドを通じて指示を出されなければ、作ろうなどと考えることは微塵もなく、魔法の研究を続けるだけだっただろう。
スライムたちの異変に気付くこともなく、スラランを家族に迎えることもできなかったはずだ。
「自分で何かをする、始めるのはとっても難しいこと。誰かの言葉で始めた方がずっと楽だし、ためになることもたくさんあるさ。だけどね……」
体を起こし、レンを見つめる。
彼もまた素描する手を止め、体の向きを変えて僕のことをじっと見つめていた。
「指示されてやったことでも、自分のため、誰かのためになるように考えること、一歩踏み出してみることが大切なんじゃないかな?」
「考えて、一歩踏み出す……?」
レンの言葉にコクリとうなずく。
人とモンスター、両者を守れる図鑑を作ろうと考えたのはこの僕だ。
異種族の情報を載せようと考えたのもこの僕だ。
誰かの助言はあっても、誰かの指示で行ったことではない。
「一歩踏み出すことで、それは自分で生み出した道になるんだ。だから、誰かに追従することを悲観に思う必要は無い。いっぱい学んで、考えてみて」
「……うん、わかった」
レンはスケッチブックへと向き直り、素描を再開した。
彼が絵を描き続けることも、意外な道へと繋がっていく可能性があるのだから。