ペチャ――
顔に何か湿ったものが触れた気配がする。
なんだろう、タオルだろうか?
ペチャ――ペチャ――
また濡れた。今度は右のまぶたから左のまぶたへと順番に。
ペロペロ――
今度は鼻を舐められた。
「うわあ!?」
驚いて飛び起き、顔を右腕で拭う。
一体、誰が顔を舐めるなんてこと――
「クゥーン……」
「え!? あ……」
声が聞こえてきた方向に視線を向けると、コボルトが僕のすぐそばに座り、こちらを見つめていた。
この子は、僕たちを住処へと案内してくれた個体のようだ。
「良かった。とりあえずは動けるようになったみたいですね」
反対側に顔を向けると、そこには優しい笑みを浮かべたナナの姿があった。
動けるようになったとはどういうことだろうか。
「ええ。ケガもそうですが、あなたの魔力はほとんど空になってしまっていたんです。まあ、あそこまでのことをしたんですから、こうなるのは当然なんですけどね」
頭を振り、いままでのことを思い返す。
そう、僕たちは襲い掛かってきたブラッドバッドの大群と戦っていた。
戦いの果てに魔力が尽き果て、気絶してしまったはずだ。
「ケガの治療は君が?」
「当然です。レン君も手伝ってくれたので、スムーズに済みましたよ」
体の各部に視線を移してみると、あちこちに包帯が巻かれていた。
そのせいで動きにくくはあるが、体の各部は問題なく反応を返してくれる。
「……五体満足で生還できた訳だね。ありがとう、君に助けられたよ」
「こちらこそ、私を守っていただきありがとうございました。あんなに強力な防御魔法、初めて見ましたよ」
洞窟の壁に立てかけられている剣を見つめ、小さく微笑む。
命を奪う剣も、大切な人を守る盾と成れる。
それを理解できたことが、とても嬉しかった。
「さあ、もう少し休んでいてください。ゆっくりと魔力を貯めて、元気な姿になってくださいね?」
ナナは僕の体を優しく引き、彼女の膝の上に頭を置かせてくれた。
少し恥ずかしいが、悪い気はしない。
誰も見ていないのだから――
「って、そうだ! みんなは? どこに行ったの?」
僕たちの周囲にはコボルトしかいない。
僕が無事なのだから、皆も無事でいなければおかしいのだが。
「みんな、コボルトたちの埋葬に行きました。このまま放置するのはあまりにも可哀想だって、レイカちゃんたちが言い出したので……」
「そっか……。みんなが無事でよかった……。じゃあ、僕も――」
「おっと、ダメですよ。お手伝いに行きたいのでしたら、さっさと体調を戻してください」
ナナの手に、僕の頭部は優しく押さえつけられてしまった。
一度気付いてしまったからか、作業をしている皆に申し訳ないという思いが浮かんでくる。
不完全とはいえ、動けはするのだから――
「……少しくらい、みんなに、私に甘えたっていいじゃないですか。その権利があなたにはあるんですから」
「権利……?」
「あなたは皆を守り抜いた。ケガをしても、魔力を失いかけても、立ち止まらずに前を向いてくれていた。そんなあなたを見て、私たちは戦い抜くことができたんですから」
まぶたを閉じ、ささやくように答えてくれるナナ。
僕の姿を見て、みんなが戦ってくれた――
「あなたが下を向いていたら、私たちも諦めていました。あなたは、みんなを導いてくれていたんです。なので、あなたにはしっかりと休む権利――いや、義務があるんですよ」
「僕だって、みんなが戦ってくれていたから頑張ることができたんだよ……?」
休む義務というのなら、皆にもあるはずだ。
一人一人が懸命に戦ったことで、勝利を得たのだから。
「最初はあなたに譲るってお話です。なので、その時が来たら思いっきり甘えさせてくださいね?」
いたずらっぽく笑うナナを見て、心が大きく跳ねる。
本当に、彼女には敵わない。
「……少しだけ、戻って来たね」
「そうですね。あなたを助けたいと思ったら、力が湧いてきました。でも、まだ完全じゃない……。あの程度のモンスターたちなら、接敵される前に滅ぼすこともできたのに……」
苦々しく顔をゆがめたナナの頬に、右手を近づける。
温かい。僕は、彼女を守れたんだ。
「滅ぼすなんて、言わないで……。君に、そんな言葉は似合わないから……」
ナナもまた、僕の手に頬を押し付けてくれていた。
こんなにも穏やかな気持ちを抱いたのは、いつぶりだろうか。
「そうだ。ソラさんに見せなきゃいけないことがあったんです」
「見せる……? 僕が気絶中に何かあったの?」
ナナはコクリとうなずき、傍らに置いてあった布を慎重に持ち上げる。
それを僕の胸の上に置き、開いてみるように促していた。
「ソラさんが……。みんなが守った命です。ブラッドバッドの退治が終わった後、そこにいるコボルトがこの子の居場所を教えてくれたんです」
布の中では、とても小さくて、とてもか弱い命が動いていた。
「コボルトの赤ちゃん……!?」
「ええ……。お母さんの毛皮に包まれる形で眠っていたんです。ほら、そこにお墓が……」
ナナが指を向けた先に顔を向けると、土が盛られて高くなっている部分が四つあった。
大きいものが一つ、小さいものが三つだ。
「この子のお母さんは、腹部に大きな傷が付いていました。恐らく、人に攻撃されたのでしょう。そして、三つのお墓なんですけど……。腹部に傷はついておらず、代わりにたくさん噛み付かれたような跡がついていて……」
「噛み付かれたような跡……。まさか、ブラッドバッドに?」
「恐らくは……。三体のコボルトは、あなたのそばにいる子と同じくらいの大きさでした」
僕のそばに座っているコボルトに向けて、ナナはゆっくりと手を伸ばす。
伸びてきた彼女の手を見て、コボルトは自らその手に頭を押し付ける。
そのまま撫でられ、気持ちよさそうに目を細めていた。
「私の想像ですが、この子とそこで眠っている三匹のコボルトは、血の繋がった家族ではないかと。そして、ソラさんが抱いている子も……」
「家族……。この赤ちゃんも……。そっか、そういうことなのか……」
なぜ、人に襲われたというのに僕たちを頼ったのか、やっと分かった。
生き残った、このコボルトは――
「君たちは、プラナムさんたちと出会った時に戦ったあの子たちだったんだね。お母さんと赤ちゃんのために、みんなで食べ物を採りに行っていたんだね……」
あの時、僕はこの子たちから獲物を奪い、そしていま、僕たちはこの子たちの命を守った。
意味が分からない。奪っておいて、なぜ守るなんてことになっているのだろう。
謝る必要が無いことは分かっている。謝る立場に無いことも分かっている。
この子たちと戦っていなければ、プラナムさんたちが危なかったのだから。
謝る必要などないのに。
「ごめんね……。君たちから奪っておいて……。君の家族を守れなくて、ごめんね……」
口から飛び出たのは謝罪の言葉だった。
奪った張本人だというのに、何も与えなかったのに。
それでもこの子は、僕を頼ってくれた。
だというのに、僕はこの子の家族を完全に守ることができなかった。
大切な人を失った後悔とはまた異なる、暗い感情が僕に押し寄せてくる。
「クゥーン……」
コボルトは小さく一度だけ鳴き、僕の顔に頭を擦りつけた。
何もせずにしばらく待っているとやがて満足したらしく、僕の顔を擦るのをやめる。
そして、鼻をヒクヒクと動かしながら、服のポケットへと視線を動かした。
「……そういえば、まだ残ってたっけ」
体を動かしてポケットの中を探ると、小袋が出てきた。
休憩中にナナから分けてもらった、ドライフルーツが入ったものだ。
「食べるかい……? 美味しいよ……?」
小袋からそれを取り出し、手のひらに乗せて差し出す。
コボルトは基本的に雑食性。
食べさせてはいけない果物もあるが、これは問題ないはずだ。
差し出されたドライフルーツに顔を寄せ、コボルトは匂いを嗅ぐ。
危険なものではないと判断したらしく、それを口に含んで食べだした。
「どうだい?」
しばらく口を動かし続けていたが、やがてその動きも終わり、舌で口の周囲を舐め始めた。
もっと欲しいようだ。
「……食べすぎは良くないから、あと二つだけね?」
再度手のひらにドライフルーツを乗せ、コボルトの口前に差し出す。
今度は匂いを嗅ぐこともせず、あっという間に口に含んでしまった。
「……違うなぁ」
美味しそうにドライフルーツを食べる姿を見て、言うべき言葉を間違えてしまったように感じる。
これも、僕が言うべき言葉ではないのだろう。
それでもあえて、この言葉を伝える。
コボルトの体を抱き寄せ、静かに――
「……頑張ったね。赤ちゃんを守るなんてすごいぞ。そして――」
優しく撫でながら、言葉を続ける。
「生きていてくれて、ありがとうね……」
今度はたくさんあげよう。幸せを。