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間章3

プルイナ温泉

「ふああぁぁあ……。おはよ~……」

 居間へと続く扉を開き、大きくあくびをしながら挨拶をする。


 すると、一つの優しい声が耳に飛び込んできた。


「おはようございます。ソラさん」

 寝ぼけまなこのまま、返事をした声の主に視線を向けると、囲炉裏のそばで火の様子を見ているナナの姿があった。


 普段ならば目を覚ますのは僕の方が早いというのに、珍しい。


「なんだか目が冴えてしまって……。ソラさんの実家だからかもしれませんね」

「少しずつ慣れていってくれればいいよ。昨夜は寒くなかったかい?」

 僕の質問に、ナナは大きくうなずいてくれた。


 寝不足のようには見えないので、必要となる分は眠れたようだ。


「ふあぁ……はふぅ……。僕はまだちょっと眠いな。荷物の運び込みをしなくちゃいけないのに……」

「あなたのふにゃふにゃ姿を見るの、なんだか新鮮です。実家に来て、気が緩んでいるみたいですね」

 クスクスと笑うナナに、僕は口を尖らせる。


 彼女の言う通り、呑気な気分になっているのかもしれない。


「眠気覚ましに温泉に行くかな。自宅のお風呂もいいけど、せっかくここにいるんだったら温泉に入らなきゃ」

「天然に湧くお風呂でしたよね? 朝から入れるんですか?」

 コクリとうなずきつつ、出かける準備を始める。


 深夜などの人が行動しない時間帯を除けば、基本的にいつでも温泉には入れるのだ。


「せっかくだし、ナナも一緒に入りに行こうよ」

「一緒に……? そ、それって……!」

 僕の提案に、なぜか顔を赤くしながら慌てだすナナ。


 なぜそんな表情を浮かべたのか理解できず、首を傾げてしまう。


「お、お風呂ですよ……? つまり、それって……」

「うん、入浴をして心と体の疲れや汚れを取るのさ。あと、体を温める効果も強いから、冬場の作業前にはもってこい。さあ、行こう!」

 素早く準備を終わらせ、玄関へと続く扉の前で手招きをする。


 ナナは悩む素振りを見せた後、意を決したように立ち上がった。


「わ、分かりました……。着替えを持ってきますので、えっと、その……。よ、よろしくお願いします……」

 割り当てられた部屋へそそくさと消えていく姿を見て、再び首を傾げる。


 しばらくして部屋から出てきたナナを連れ、目的地へと向かう。

 道中、何を話しかけても上の空だったので心配をしてしまったが、何事もなく温泉がある建物へとたどり着くのだった。


「こ、ここが温泉……!」

「そ。ようこそ、プルイナ温泉へ」

 木造なのは他の民家と変わらないが、屋根は茅葺ではなく壁と同じ材木が使われている。


 建物の奥からは白い湯気がひっきりなしに立ち昇っており、道中で冷えた体を温めてやろうと、僕たちを招いているようだ。


「大丈夫、大丈夫……。ソラさんなら見られたって大丈夫だから……! だ、だけど、やっぱり恥ずかしいよぅ……!」

 ナナは小声でブツブツと何かをつぶやいていた。


 初めての温泉なので、不安を抱いているのかもしれないが、恥ずかしいとはどういうことだろうか。


「大丈夫、結局はお湯に入るだけなんだから。入っちゃえば気持ちよくて、不安なんて飛んで行っちゃうさ」

「わ、分かりました……! あ、あんまり見ちゃダメですからね!」

 よく分からない注意をした後、ナナは建物の入り口を見つめながら大きく深呼吸をした。


 とてもお湯に浸かるだけとは思えない緊張ぶり。

 温泉に入ることが嫌というわけではないようだが、なぜこれほどまでに動転しているのか分からない。


「ソラさんと一緒にお風呂……。頑張れ私……! よし、覚悟が決まりました! 行きましょう!」

 ペシンと頬を叩いた後、ナナはかけられている暖簾をくぐって建物内に入った。


 彼女が発した言葉の意味を考えながら、僕もまた後に続くのだが、


「僕と一緒にお風呂……? ま、まさか!?」

 緊張の理由を理解し、ものすごい勢いで顔が熱くなる。


 僕はそんなつもりで誘ったわけではない。

 急いで誤解を解かなければ。


「ナナ! 待って、待って! 一緒にお風呂に入りに行こうって言ったけど、あれは――」

「大丈夫です! あなたになら肌を見られたってへっちゃらですから! せ、背中の流しあいとか、し、しますか!?」

 すっかりその気になっているナナを見て、僕はますます慌ててしまう。


 動揺したまま彼女の両肩を掴み、誤解が解けるであろう言葉を懸命に思案する。

 やがて思い浮かんだ答えを、大声で発した。


「温泉は、男湯と女湯で分かれているんだ! だから、僕たちが一緒に同じお風呂に入るってわけじゃないんだ!」

「え? じゃあ、ソラさんと一緒に入浴するっていうのは私の勘違い……!?」

 顔を真っ赤にし、うつむきながら体をプルプルと震わせるナナ。


 彼女のその様子を見て、落ち着かせるための言葉をかけようとするのだが。


「そ、ソラさんのバカーーっ!!」

 それよりも早く大声を上げ、ナナは女湯の暖簾がかけられた方へと走って行ってしまう。


 残された僕は、独り言をつぶやく形で謝罪することしかできなかった。



「あ~……。ナナに悪いことしちゃった……。気持ちよく温泉に入れたかなぁ……」

 プルイナ温泉の休憩室にて。温泉で体を温めた僕は、床に座り、机に突っ伏しながら泣き言をこぼしていた。


 入浴しても心が休まることはなく、むしろ疲れが溜まった気もする。


「確かに僕の言い方も悪かったけどさぁ……。まさか、あんな勘違いをされるとは……」

 よくよく考えてみると、ナナは僕となら一緒に入浴しても良いと考えてくれていたわけでもある。


 そこで否定に近いことを言われてしまえば、怒るのは当然だろう。


「ナナとお風呂か……。それもいいかもって、何を考えているんだ僕は!」

 机に頭を叩きつけ、浮かび上がった邪な気持ちを排除する。


 いったん外に出て、頭を冷やした方がいいかもしれないなどと考え出したその時。


「ソ~ラさん」

 ナナの声が背後から聞こえてきた。


 びくりと体を震わせつつ振り返ると、そこには髪を短くまとめた彼女の姿が。


「どうしたんですか? そんなにじっと見つめて」

「え!? い、いや、何でもないよ。それより、隣に来るかい?」

 慌てる僕に対し、ナナは微笑みを浮かべながらすぐ隣で腰を下ろした。


 ふわりと揺れる髪からは、温泉と石けんの香りが漂い、熱で頬は上気している。

 いつもとはどこか違う彼女の姿に、僕の心臓は激しく鼓動を打っていた。


「えっと、その……。ご、ごめんね。紛らわしいことを言って、誤解させて……」

「いえ。私の早とちりですし、あなたは何も悪くありませんよ。こちらこそ、すみませんでした」

 お互い頭を下げ、謝り合う。


 再び顔をあげると、いつもの優しい笑みを浮かべたナナの姿が瞳に映った。


「初めての温泉、どうだった?」

「とっても気持ちよかったです。また、入りに来たいですね」

 温泉の入り口を見つめながらそう言ってくれた。


 気に入ったのであれば何よりだ。


「好きな時に入りに行っちゃってよ。じゃないと、もったいないしね」

「は~い。次の時も楽しませていただきますね。……ちょっと、横になっちゃおうかな」

 ばたりと背から倒れ、瞼を閉じるナナ。


 同じように床に背を付け、天井を見つめながら話題を探す。

 ここはわざと話を蒸し返し、笑い話に変えてしまおう。


「君が、僕と一緒にお風呂に入りたいと思ってくれるとは考えてもいなかったよ。さっきは否定に近いことをしちゃったけど、嬉しかった」

「ということは、あなたも私と一緒に入りたいと思っているってことですね? えへへ、あなたがそんなことを言うとは思いもしませんでした」

 僕に向けてころりと寝返りをうったナナの口角は、いたずらっぽく引き上げられていた。


 そして、彼女は僕の手に右腕を伸ばしつつ、こう口にする。


「だったら一緒に入りましょうよ。さっき壁に貼り付けられている紙を見たんですけど、ここの温泉には家族風呂っていうものがあるそうじゃないですか」

「あー……。そういえばそんなものもあったっけ。でも、いいのかな? 結婚どころか恋人になってすらいないのに」

 僕の返答に、ナナは少しだけ悩むようなそぶりを見せる。


 しばらくして、彼女は納得したような表情を浮かべながら口を開く。


「なら、いつか恋人になれた時に。恋人岬での約束もありますし」

「それもそうだね。じゃあ、約束を一つ増やそうか」

 僕たちは寝ころんだまま小指を伸ばし、お互いの指に絡み合わせる。


「こうやって君と約束をするたび、より強く繋がれた気持ちになるよ」

「私もです。より深く、あなたのそばに近寄れたと感じます」

 微笑み合った僕たちは、もう少し休んでから帰宅することにした。


 やがて手を握り合ったまま起き上がり、建物の外に出る。

 寒々とした空気が僕たちの体を冷やしていったが、繋がれた手の温もりが冷めていくことだけは決してなかった。

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