【文化祭当日・運命の朝】
ついに、文化祭当日がやってきた。
「……来てしまった」
倉子は、生徒会室の椅子に崩れ落ちるように座り込み、両手で顔を覆った。
すでに表情は疲労困憊、始まる前から魂が抜けそうだった。
生徒会は、当日実行委員会として校内巡回、トラブル対応、案内などの役目を担う。
そして午後には、自分たちのクラス発表の舞台が待っている。
「おはようっす……」
同じく憔悴しきった表情の真子が、生徒会室に入ってきた。
「先輩……悪い知らせっす」
「知ってる……社長が見に来るんだろ……どんだけ暇なんだよ!」
「それもですが、さらに悪い知らせっす……」
真子の声が沈む。
「……井上先輩、当日の別件キャンセルになったそうです」
「……おい……まさか……」
「見に来ます。しかも、非番の全員を引き連れて」
「やめろおおおおおおおーっ!!」
倉子の叫びが、生徒会室の天井を揺らした。
「……いや、待て。今から代わってもらうって手も……」
「先輩! 冗談でもそれ言っちゃダメっす! あの人なら、本当にリハーサルなしで舞台に上がって、そのまま即興で全部めちゃくちゃにして……」
「『あら?どうしてこうなったの?』って言うんだろうな……」
倉子は椅子から転げ落ちそうになりながら、虚空を見つめて呟いた。
「……悪夢しか見えない……」
文化祭の幕は、すでに地雷原の上でゆっくりと上がり始めていた。
【巡回と雑務とステージへの恐怖】
文化祭が始まった。 校門が開かれ、在校生だけでなく、保護者や地域の人々、さらには他校の生徒たちまで、続々と来場している。
その波の中を、倉子と真子は制服姿で巡回していた。
「……同僚の前で演劇……。しかも、ノンフィクションベースの自虐劇……スクール水着並みの羞恥プレイだわ……」
倉子はぼそぼそと呟きながら歩く。
「本当っす……羞恥の地雷原を制服で歩かされてる気分っす」
そして、運命の邂逅。
「おーい、そっちにいるの、もしかして――」
声をかけてきたのは、社長だった。 その後ろには、制服姿の二人を眺めて笑いをこらえている同僚たちが数人。
「本当に制服着てるのね……」
「もう一度高校生を送れるなんて、羨ましいわ」
くすくす笑いながら写真を撮ろうとする同僚もいた。
「なんなら、代わってあげましょうか?」
「いえいえ……あなたたちほど制服が似合う人もなかなかいないし」
その言葉に、倉子のこめかみが引きつる。
「……社交辞令が、地味に刺さるわ……」
「先輩、顔がひきつってるっす」
ふと気づく。
「あれ? 井上先輩は……?」
「ああ、どっかではぐれた」
「……井上先輩らしいっす」
「こういう人混みでは、絶対はぐれますからね」
「まあ、非番だし、無理に団体行動することもないから……」
社長が軽く流すように言う。
「じゃあ、適当に楽しんで、早めに帰ってください」
「……? 何かあるのか?」
「いえ、いえ、何もないっす」
倉子と真子は笑顔を貼り付けたまま一礼すると、その場を足早に離れた。
「……社長たち、私らが劇をやること、知らないっぽいっすね」
「……お願いだから、舞台が始まる前に帰ってほしい……」
「奇跡を祈るっす」
二人の背中には、決して軽くない運命の重みが乗っていた。
【本番】
文化祭ステージ——ついに、開演の時が来た。
緞帳の向こう、ざわつく観客の気配。
足元から冷たい緊張が這い上がり、倉子は自分の頬がひくついているのがわかった。
隣に立つ真子もまた、目の焦点が完全に虚空に向いていた。
(逃げたい……でももう遅い……)
照明が灯り、スポットライトが彼女たちを照らす。
地獄のような芝居が、始まってしまった。
——内容は、ノンフィクションに基づいた「とある警備会社の顛末劇」。
それをクラス発表として、なぜかコミカルに脚色されて舞台化されている。
「この演目を選んだ委員長、今すぐ反省文百枚書いてほしいっす……」
「自分で出演しといてなんだけど……黒歴史待ったなし……」
台詞を吐きながら、心の声が脳内で絶叫していた。
しかし——
「クスクス……」「あはははっ!」「なにこれ最高!」
観客は、大爆笑だった。
倉子と真子にとっては、恥ずかしさで吐きそうになるエピソードのオンパレード。
だが、第三者にはその“リアルすぎるリアリティ”がまるでコントのように映るらしい。
(なにが“制服忘れて自社の支給ジャージで警備出動事件”だ……)
(“真面目な倉子がなぜか酔っ払いに追いかけられて木の上に逃げた話”とかいらんわ!)
それでも芝居はテンポよく進み、舞台袖で支える弓子や他のクラスメートのサポートもあり、観客席は常に笑いと拍手の渦に包まれていた。
——そして、終幕。
最後の台詞が決まり、照明が落ちる。
スポットライトのもと、全員が一列に並び、深々と頭を下げた。
(終わった……ようやく……!)
そう思い、頭を上げたその瞬間——
視界の端に映った、一人の女性の姿。
観客席最前列。
文化祭プログラムを両手で握りしめ、顔を輝かせて激しく拍手を送っている——
嬉々とした笑顔。見間違えるはずもない。
「……っ!!」
倉子と真子は、息を飲んだ。
(なんで……)
(社長たちは午前中で帰ったはず……)
震える声で倉子がつぶやく。
「社長たち……帰ったよな……?」
「帰ったっす……たしかに全員……」
「なんで……あの人だけ残ってるんだ……」
「井上先輩っすから……」
「だよな……」
まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、2人はその場で硬直していた。
——完全に幕が下りる。
拍手の余韻と共に、観客の視線が別の演目へと移る中、出演者たちは続々とステージを降りていく。
だが、倉子と真子だけは、まだその場から動けずにいた。
そんな2人に、舞台袖から大橋弓子の声がかかる。
「倉子さん、真子さん。次の演目の準備が始まりますよ」
ハッとして、ようやく硬直が解ける2人。
「……行くか」
「……行くっす」
足元がふらつくような足取りで、ステージを後にした2人の心には、ある確信が芽生えていた。
——この文化祭の記憶は、間違いなく一生モノだ。
そして何より、
(絶対に……井上先輩の感想を聞きたくない……!)
そんな予感を胸に、幕間のステージ裏へと消えていった。
【祭りの後、もしくは、あとの祭り】
文化祭が終わり、夕暮れが校舎にしっとりと降りていた。
片付けの喧騒が収まりつつある中、生徒会室では、文化祭の運営に奔走したメンバーたちが、廃人のように力尽きていた。
「ふぅ……ついに終わった……」
椅子にぐったりと寄りかかりながら、澪が静かに息を吐く。
「これで、生徒会主導の大行事は、すべて終了しました……」
その言葉に、部屋の空気が一気に安堵に包まれる。
「やりきった……」
「明日は代休って、ほんとですか、澪さま……?」
「はい、公式に許可済みです。雑務は、明後日から」
「……肉体も限界だけど、精神のMPがゼロ……」
「今日の舞台で99パーセント削られたっす……」
倉子と真子が、もはや魂の抜けた目で天井を仰ぎながらぼやいている。
そこへ——
♪ピロリン……
倉子のスマートフォンが鳴った。
「え?……こんな時間に……社長?」
画面に映る名前に、倉子の眉が跳ね上がる。
「……まさか、また変な業務……?」
躊躇いつつも通話に出ると、すぐにお馴染みの低く鋭い声が響いた。
『倉子……お前たち、劇をやったそうじゃないか? なんで事前に教えてくれなかった?』
「えっ……え?」
『見損ねたじゃないか!!』
「……あの、まだ学校ですので、携帯の使用は校則違反になります……」
ブチッ
通話を強制終了。
そのまま、無言でスマホを伏せる倉子。
「……やっばい……」
「えっ、いまのって、社長……?」
「……井上先輩、言ったんだ……私たちが出たって……」
「まじで?まじで、あの人、言ったんすか……?」
「言ってる……確信ある……明日には会社中に広がってる……」
「もう……生きていけない……」
2人は、ズルリと机に突っ伏した。
「……どうせなら、いっそ、観客席で井上先輩と一緒に消えてほしかった……」
「一生社内で“文化祭ヒロイン”って言われるやつっす……」
祭りの後。
疲労と羞恥と、そしてほんの少しの達成感だけを残して、生徒会室はしばしの静寂に包まれていた——。
【エピローグ:恐ろしい人】
文化祭の全日程が終わり、夜の静けさがようやく訪れた。
倉子は、自室のベッドにダイブするように倒れ込んでいた。服も脱がず、メイクも落とさず、ただただ意識を手放す直前——。
ピロン♪
無慈悲な通知音が鳴る。
「……誰だよ、こんな時間に……」
ベッドの脇に放り出したスマホを手探りでつかみ、画面をのぞく。
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件名:劇 感想
送信者:井上喜美子
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「……は?」
開いた瞬間、画面を埋め尽くす長文。
“冒頭の入りから素晴らしかった。真子ちゃんの表情芝居が特に光っていたし、倉子ちゃんのセリフの間が完璧だった。あのシーンで涙ぐんでしまったわ。ああ、でも何よりも——”
「ながっ……!!」
指をスクロールさせても、させても、終わりが見えない。
「ちょ、待って、もう何万字あるの……?!」
画面酔いするほどの長文レビューが、まるで感想という名の論文のように書かれていた。
「……誰も聞いてないのに、なぜここまで語れる……?」
そのままスマホを胸の上に落とし、倉子は天井を見つめる。
「……めまいがする……」
その翌朝。
代休の朝とは思えないほど早い時間に、真子からLINEが飛んできた。
『倉子先輩、井上先輩からメールきたっすよね?』
『来た』
『劇の感想っすよね?』
『うん。……永遠に続くやつ』
『……ウチのやつ、倉子先輩のと内容ちがうっすか?』
『たぶん全然ちがう。……少なくとも同じ文章じゃなかった』
静まり返るチャットの画面。
しばらくして——
『……つまり……あの人、2本書いたってこと? あの分量を……』
『……そういうことになる』
そして、まるで息を合わせたかのように、2人はスマホ越しに同時に呟いた。
「恐ろしい人だ……」
その日、2人はもう一度布団に潜り込んだ。
悪夢の続きが来ないことを願いながら——。
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