━━婚約は破棄━━
金色に浮かんだ文字が静かに消える。その様子を見て、クレマンもマデリン嬢もポカンとしている。
「承知致しました。それでは私はここを出て行く事にします。」
そう言ってお辞儀をし、退室する。
◇◇◇
すぐに荷物をまとめる、と言っても私の荷物など、ほとんどを売り払ってしまっていて、持っているのは実家から持って来た数枚の服くらいだ。トランクに服を畳んでしまっていると、扉が急に開く。姿を現したのはクレマンとマデリン嬢だ。
「何か?」
そう聞くと、クレマンが言う。
「俺の屋敷から何かを持ち出すのは許さんからな。」
そう言われて私は笑う。
「何も持ち出しませんよ。」
そう言ってトランクを開いて見せる。
「これは私が実家から持って来たものです。マイヤー家で得たものは何もありませんので。」
クレマンはトランクの中を覗き見て、満足気に聞く。
「ここを出てどこへ行こうと言うんだ? 女だてらに一人でやっていけるとでも?」
そう言って隣に居るマデリン嬢を抱き寄せて言う。
「マデリンの侍女にしてやると言っているんだ。そうすればお前だって住む場所や食うものに困らないだろう?」
私はトランクを閉じ、立ち上がると言う。
「ご心配頂き感謝いたします。でもご心配には及びません。」
トランクを持ち、二人の間を擦り抜ける。数か月だったけれど、お世話になったお部屋に感謝の挨拶をして、階段を下りる。
「お待ちください、ジャスミン様。」
そう言って駆け寄って来たのは執事のバーノンだ。
「バーノン、どうしたの?」
バーノンを良く見れば、その手には小さいながらもトランクがある。
「あなた、もしかして…?」
そう聞くとバーノンはニッコリと微笑み言う。
「お供致しますとそう申し上げた筈です。」
そして奥からバタバタと足音がして、ジェーンが現れる。
「ジャスミン様、お待ちください!」
ジェーンまでもが手にトランクを持っている。
「あなたも、なの?」
聞くとジェーンは息を切らしながら言う。
「もちろんです。」
その様子を見ていたクレマンが大声で言う。
「待て! お前たちは、マイヤー家の使用人だろう?」
今更そう言うということは、この人は本当に何も分かっていないのだなと思う。3人で顔を見合わせて笑う。そしてバーノンがクレマンに向かって言う。
「クレマン様、失礼ながら申し上げます。私もジェーンも、そしてこの屋敷に今居る使用人全員がマイヤー家との契約は今はもう無いのですよ。」
クレマンが驚く。
「そんな筈は無いだろう!」
そう言うクレマンを見て、私の日々言っていた事が何も頭に入っていないのだと実感する。バーノンが冷静に言う。
「契約を更新する為には、互いの同意が必要です。使用人は奴隷ではありません。雇用契約が必要になるのです。そしてその更新の時期はとうに過ぎています。」
バーノンは私を見て微笑み、そして言う。
「私が今まで契約も無しにこのマイヤー家に執事として従事していたのは、ジャスミン様がいらしたからです。そのジャスミン様が婚約を破棄されてお屋敷を出るのでしたら、私もこのマイヤー家に居る意味がございません。そしてそれはここに居るジェーンも一緒です。」
クレマンは慌てた様子で言う。
「そんな話は聞いていない!」
私は溜息をついて言う。
「使用人の雇用については、クレマン様に申し上げました。契約を継続されるようであれば、クレマン様のサインが必要だと。でもクレマン様はサインすると言いながらも、サインをする事すら、面倒臭がってしていませんよね。」
そして辺りを見回して言う。
「おかしいとは思いませんでしたか? 明らかに使用人の数が減っているというのに。今、この屋敷に居残ってくれている使用人はバーノンと、ジェーン、庭師のミッチ、料理人のオットーくらいですよ。」
そう言い終えると、奥からその料理人であるオットーがやはりトランクを手に出て来る。
「あぁ、ジャスミン様、ここにいらしたんですね。」
それを見てクレマンが言う。
「オットー、お前も出て行くというのか!」
オットーはクレマンを見上げて言う。
「そりゃあそうでしょうとも。お給金も頂けない屋敷で働いても、無駄骨ですからね。」
そして私を見て微笑むと言う。
「お供致しますよ、ジャスミン様。」
クレマンはわなわなと震えながら言う。
「許さん! 許さんぞ!」
そう言いながら階段を下りて来る。私はそんなクレマンに言う。
「あなたのお許しは頂かなくても、私やこの人たちをあなたに縛るものは何も無いのですよ。」
クレマンは階段を降り切って、傍にあった花瓶を掴むと投げて来る。この人は本当に何かを投げるのが好きなのだなと思いながら、私は指先でまた円を描く。投げ付けられた花瓶は私の指先から出た金色の粒で囲われ、ふわふわとゆっくり床の上に着地する。それを見届けて、私はクレマンに言う。
「それでは私はお
そこでバーノンが言う。
「ジャスミン様、魔法解除を。」
そう言われて私は笑う。
「そうでしたね。」
屋敷を出て振り返り、唱える。
マジカ・エンディア
屋敷全体を包んでいた魔法が私の元へ戻って来る。全てが戻って来て、私は息をつく。やはり全体を包んでいると疲れるものなのだなと思う。
「ジャスミンさまー!」
遠くで声がして見れば、そこには庭師のミッチが馬車を引いている。既に門の外側に居るミッチに笑う。
「その馬車は何なんだ!」
背後でクレマンがそう怒鳴る。ミッチは笑いながら、言う。
「ジャスミン様、お迎えに上がりましたよー!」
豪奢な馬車。装飾が重厚でどこかの高位の方の馬車なのだと分かる。クレマンが私たちを押し退け、馬車に近付く。私たち4人は顔を見合わせて、馬車の方へ向かう。
「この馬車は何なんだと聞いている!」
クレマンが大声でそう言う。ミッチは意にも介さない様子で言う。
「この馬車はバーンスタイン家の馬車ですぜ。」
バーンスタイン家、と言えば、この国の侯爵家だ。
「バーンスタイン家だと?! その侯爵家の馬車をどうしてお前が引いている!」
クレマンがそう聞く。察しが悪いなと思う。
「へ? 私は昨日からバーンスタイン家に奉公してますが?」
そして私を見て微笑み、ミッチが言う。
「お乗りくださいジャスミン様、レイノルド様がお待ちです。」
ここを出てどうしようかと思っていたところだった。渡りに船とは。バーノンが私に手を差し出して、馬車に乗る手伝いをしてくれる。
「皆も乗って。」
そう言うとオットーが言う。
「俺はミッチの隣に。」
そう言ってミッチの隣に座るオットー。
「失礼致します。」
そう言ってジェーンが乗り込み、バーノンも次いで乗って来る。
「それではごきげんよう。」
意気揚々とミッチがそう言って、馬車を走らせる。