馬たちを厩舎に入れて、世話をしてやる。しかし、何とも魔法とやらは不思議なものだ。俺は魔力を持たない人間だ。だから魔法なんてものはチンプンカンプンだ。そんな俺でもジャスミン様に会った時は、会った瞬間にこの人は何だかすごい人だっていうのは分かった。
俺は平民だ。たまたま庭師の仕事をしていて、前のマイヤー伯爵に拾って貰えた。庭師は庭の世話をしていれば、それで良い。木々の面倒とそれはそれは美しい庭園の世話をする、そんな仕事。
名だたる家門の家に入るにはそれなりのマナーというやつが必要になるが、マイヤー伯爵家ではそんなもの、必要無かった。だって、今のマイヤー伯爵はそんな事、気にしない。平民とは口を利かないのだから。それに俺は心の底では今のマイヤー伯爵が嫌いだった。雇い主の事が嫌いでも、木々の世話や庭の仕事は好きだから、問題は無い。
そこへ現れたのがジャスミン様だった。ジャスミン様は他の貴族様とは違って、平民の俺にも優しかった。そしてジャスミン様は魔法とやらが使えるのだという。俺が庭の仕事をしている時、間違って足を踏み外し、梯子から落ちそうになった事があった。
あぁ、これでしばらくは庭の仕事が出来なくなるなーと落ちながら思った。でも俺は地面に激突しなかった。気付けば体がふわっと浮いていた。ストンと地面に着地して、何が何だか分からなかったけど、怪我しなくて良かったと思っていた時、ジャスミン様が駆け寄って来て「大丈夫か?」と聞いてくださった。自分が無事だったのはジャスミン様が救ってくださったからだと分かった。魔法とやらで俺の体を浮かしてくださったのだ。何とも不思議な力だ。
それからはジャスミン様とは打ち解けて話すようになった。ジャスミン様は優しくて、丁寧な言葉を使えない俺でも気にせず話してくれた。
そして3日前。庭の仕事をしていた俺の元に不思議な球体が現れた。あぁ、見た事がある。前の執事エジットがこんなのを使っていた。そう思ってその球体に触れる。球体が形を変え、まるで手紙のように文字が浮かぶ。送り主はエジットだった。クレマン様が辞めさせた前の執事。そこには丁寧に今の俺の現状とこれからの身の振り方が書かれていた。
なるほど、そういう事か。それがジャスミン様の為になるならと、俺はマイヤー伯爵家を出た。そして指示の通りに侯爵様の家に行った。侯爵様はそこで俺の新しい雇用主になってくださった。そしてジャスミン様を迎えに行くように言われたのだ。マイヤー伯爵家では馬の世話もしていた。なんせ、あそこはクレマン様の横暴な振る舞いに嫌気がさしてどんどん人が辞めて行く家だった。それと雇用契約書にクレマン様がサインしなかったそうだ。だから俺は勝手にあの家を出る事が出来たのだ。
ジャスミン様は今頃、お休みになっているかな。バーノンとオットー、ジェーンが馬車に乗った時は爽快な気分だった。
「ミッチ、馬の世話はそれくらいにして、お前も休んだらどうだ?」
そんな声がして振り向くと、そこには侯爵様がいらっしゃった。
「はい、そうします。」
侯爵様は馬たちを労わり、優しく撫でている。この人は良い人だ。
「ミッチ、君は庭師なんだろう?庭の仕事をするかい?」
侯爵様がそう聞く。
「出来ればそうさせて貰えると助かります。」
そう言うと侯爵様は微笑んで頷く。
「分かった。ではそうしよう。」
◇◇◇
侯爵様とのお話を終えて、私は部屋へ戻った。侯爵様は執務に戻られ、バーノンも侯爵様に付いて行った。私は部屋に戻り、一息つく。さて、これからどうするか、考えなくてはいけない。婚約を破棄したのだから、私は自由の身だ。かと言って帰る家は無い。侯爵様はずっとこの家に居て良いと仰っているけれど、いつまでもお世話になる訳にはいかない。この家に仕えているアーレントのようにどこかの家門に仕えるか、魔塔で魔法の研究をするか、自身の魔法をうまく使って身を立てるか。または魔法の力に頼らず、魔力を持たない子女と同じように、誰かと婚姻を結ぶか…。
貴族の結婚というものはいわば契約だ。家と家の結び付きを強化する為のもの。だからこそ、男爵位である私の家はそれほど家柄にはこだわってはいられない。しかも父も母ももう亡くなっている。家督は伯父が引き継いだ。実家自体、もう無いのだ。身を立てると言っても、私に出来る事は…そう考えていると、ノックが響いた。
「はい。」
返事をすると失礼致しますと言って、ジェーンが入って来る。
「ジェーン。」
ジェーンは新しい侍女服を着ている。
「ジャスミン様。」
ジェーンは何だか嬉しそうだ。
「とても似合っているわね。」
そう言うとジェーンは照れ笑いをする。
「ジャスミン様もお召しになっているドレス、素敵です。」
水色のドレス。小花柄が可憐に見える。
「ジェーンは侯爵家と契約を?」
そう聞くとジェーンが頷く。
「はい、とても良い条件で契約をさせて頂きました。」
…となると、おそらくオットーもここで雇って頂けるのだろう。一緒について来た使用人たちがここで雇用して貰えるのは有り難い事だ。あとは私自身がどうするかだけ…。
1級魔法師であれば一人で身を立てる事など、造作も無い事です
アーレントの言葉が頭の中に浮かぶ。確かに言う通りだ。私は1級魔法師で、保護魔法や治癒魔法、そして言葉による制約魔法などが使える。魔塔で学んだ知識もある。保護魔法や治癒魔法、制約魔法は使える者の数が少なく、希少な魔法だと言われている。それらの魔法を駆使すれば、私一人の身を立てる事も可能だろう。希少であるが故に、王族からも、そしてもっと言えば周辺国からも、引く手数多だろう。
この国では魔法を使える者の方が数が少ない。魔力を持たずして生まれて来る人間の方が多いのだ。だからこそ、クレマンもマデリン嬢も魔法の希少性を理解していなかった。私の母は保護魔法が使えたし、父は制約魔法が使える人だった。だから私の周りにはいつも常に魔法の力が溢れていた。父は私を魔塔へ行かせて、魔法についての勉強をさせた。私は魔塔を首席で卒業し、その後も研究をやってみないか? と誘われたけれど、断った。魔法の研究よりも両親の元へ帰りたかったからだ。両親の元に帰って、しばらくは平穏に暮らした。今思えば、あの時が一番幸せだったかもしれない。私が帰って1年経つ頃に、それが起こった。
「ジャスミン様、ジャスミン様。」
呼ばれてハッとする。ジェーンが心配そうに私を見ている。
「何かありましたか? お顔の色が優れませんが。」
私は苦笑いして言う。
「いいえ、大丈夫よ。考え事をしていたの。」
ジェーンは私に寄り添い、言う。
「何かありましたら、すぐこのジェーンに言い付けてくださいね。」
ジェーンの微笑みを見ていると何だかホッとする。
「そうね、そうするわ。」
そしてふと気になり、聞く。
「それはそうと、ジェーン。あなた、お仕事は?」
ジェーンはにっこりと笑うと言う。
「私はマイヤー家に居た頃と変わらず、ジャスミン様付きの侍女ですよ。」
そう聞いて少し驚く。ここで雇用されたというのに、仕事が私付きの侍女? …あぁ、そうか、お客様のお世話がジェーンの仕事なのね。そう思っていると、ふと気配を感じる。これは…。