彼女を抱き上げて、部屋に連れて行く。きっとショックだっただろう。彼女は自分を強く見せようとしている。いや、きっと強いんだろう。ベッドに彼女を横たえる。布団を掛けてやり、ベッドの端に座って彼女の頭を撫でる。
幼い頃のあの日。俺が初めて彼女に出会った日。彼女はキラキラしていて、そして無邪気だった。
俺は侯爵家の嫡男として生まれ、幼い頃から帝王学を学び、剣の腕を磨いて来た。それは野心とかそういう部類の努力では無く、そうする事が当たり前だったからだ。あの日は父上の視察に付いて行った。比較的、父上はどんな事も包み隠さず俺に見せてくれた。それでもあの日は子供に聞かせる話では無いと言って、外に出された。その代わりに俺は護衛に付いてくれている騎士たちと一緒に山の中の視察を父上に任された。山の中の様子を見て回り、父上にしっかりと報告しなくては、とそう思っていた。
不思議な森だった。ふと視界の隅に何かを見つけ、走り出した俺に、騎士たちは慌てていた。俺が見つけたのはそれまで資料でしか見た事の無い珍しい動物。白いリスだ。俺は夢中で追いかけてしまった。そのせいで騎士たちとはぐれた。右を見ても左を見ても、同じような景色に、俺は慌ててしまった。こういう時は動かないのが一番だと思い、大きな木の根元に座る。時が過ぎて行くにつれて不安が募る。
そんな時、彼女に出会ったのだ。出会った彼女は花冠を頭に載せ、とても無邪気に俺に話し掛けて来た。何故か俺は彼女と打ち解けて、そして普段の俺ではやらないような遊びに夢中になった。山々を駆け回り、彼女が作ったシロツメクサの指輪を貰った。こんなふうに子供らしく遊んだのは初めてだったのだ。もう夕暮れがそこまで迫って来ている、そんな時間になった時、俺たちの目の前には大きな湖が広がった。彼女が引き返そうと言った時、彼女のスカーフが風に飛ばされた。スカーフは風に乗って、湖の上に着水した。彼女は酷く悲しそうだった。だから俺は何とか、そのスカーフを取り戻したいと思った。木に登り、枝を持った手を伸ばし、もう少しでスカーフに届きそうだった。
その時。
枝が音を立てて折れた。成す術無く、俺は湖に落ちた。服が水を吸って重くなる。その重みのまま、俺は湖の底へ引き摺り込まれる。あぁ、俺はこのまま死ぬんだろうか、そう思った。
次に目が覚めた時、目の前には泣いている彼女が居た。一体、何が起こったのか分からなかった。不思議だったのは確かに湖に落ちた筈なのに、俺の体は全く濡れていなかった事。彼女は泣きながら俺の無事を喜んでくれていた。遠くから騎士たちの俺を呼ぶ声が聞こえて来る。それを聞いて彼女は立ち上がり、俺に持っていた指輪を渡してくれた。この指輪が俺を救ったのだという。七色の石が輝く指輪。そんな石、見た事も無かった。
ジャスミン、それが彼女の名だった。
俺は父上と合流してからも、彼女の事を自分なりに調べた。けれど、どこにもそんな名前の女の子など居なかった。まるで隠されているかのように。
◇◇◇
酷い有様だ。私がこの屋敷に来て、思った最初の感想はそれだった。誰が使用人を決めているのか、全く分からず、統制のとれていない屋敷内。主人である伯爵は二言目には「何とかしろ」としか言わない。これがあのジャスミン様の元婚約者だというのだから、ジャスミン様がどれ程、ご苦労されて来たのかが分かる。
私は執事としてこの屋敷に雇われた。なんて事は無い、他に執事を出来そうな人間がこの屋敷に来ていなかった、それだけの事だ。バーノンの残した帳簿は完璧だった。そしてそれをちゃんと管理していたであろうジャスミン様もまた、優秀な方だ。なのに主がこの有様なのだから、笑えない。私はこの屋敷を立て直す気は無い。伯爵であるクレマンの動向と、新しく婚約者として図々しくも居座っているマデリン嬢の動向を探ればそれで良い。それでもある程度の余裕を持たせないと彼らは動き出さないだろう。いや、動き出さない方が良いのか? 俺は侯爵様に指示を仰ぐ事にした。
侯爵様の指示は「動かせ」だった。
ならば。俺はこの屋敷を少し掃除しなければならない。
◇◇◇
朝の光を感じて目が覚める。私は…どうしたのだっけ…昨日、夜、食事をして。その後、侯爵様とお話をしたのだった。そこで私の両親の事を聞かされた…。そうだ、そうだった。
「ジャスミン様。」
声を掛けられ見れば、そこにはジェーンが居た。
「お目覚めになられましたか。」
ジェーンは優しく私に微笑む。
朝の支度をしていると、部屋に食事が運ばれて来た。運んでくれたのはバーノンだった。朝食の載ったサービングカートにはマーガレットの花が添えられている。バーノンは優しく微笑み、言う。
「侯爵様自らがお選びになったお花でございます。」
こんなふうに気遣いまで出来てしまう、素敵な人だ。朝食をちゃんと頂こう。ちゃんと食べて、前を向かないと。私はそう思い、背筋を正す。
◇◇◇
朝食後、私は幾分、冷静になった。部屋に一人になり、昨日聞いた事を反芻する。
両親は人為的な事故によって、命を落とした事になる。誰かがその作為によって、私の両親を事故に遭わせたのだ。
まず、浮かび上がって来る疑問は「何故?」だ。
私の両親は善良な人だ。誰かを騙すような事も、傷付けるような事もしない。山奥の森の中の家に家族だけで住んでいた。時折、母の保護魔法や父の制約魔法を頼って人が来るくらいで、ほとんどは家に居て、誰にも迷惑など掛けていない。両親の人間性の問題では無いのだとしたら…。
そこで私はハッとする。遠い記憶が呼び覚まされる。
「ジャスミン、あなたにおまじないをかけてあげるわね。これは大事なおまじない、あなたを守る大事なおまじない…」
母はそう言っていつも私の頭を撫で、額に何かを描いていた。
リシャール家の紋章━━ それは羽と鍵だ ━━
母はいつも私の額に羽と鍵を描き、微笑んで額に口付けてくれていた。それが何を意味するのか分からない。私を守るおまじない…。