この機会を逃したらマティス様と顔見知りになるチャンスはもう無いかもしれない。バーンスタイン侯爵様には劣るけれど、伯爵家よりも侯爵家の方が良いに決まっている。マティス様の前まで来る。マティス様はあの女の帰った方向をずっと見ていらっしゃった。
「マティス様。」
そうお声を掛ける。マティス様が私を見る。そうよ、私を見なさい。あの女なんかよりもずっとずっと可愛くて美しい私を。
「どちら様かな。」
マティス様は表情を変えずに聞く。
「私はマデリン・フレムと申します。」
そう言って微笑む。けれどマティス様は表情を変える事無く、私を見下ろしている。
「フレム家…あぁ、思い出しました、王都の隅にある子爵家でしたね。」
マティス様のお顔に蔑みの色が混ざるのを感じる。
「その子爵家のお嬢さんが私に何か御用ですか?」
そう聞かれ、私が次の言葉を言おうとした時。
「マデリン、止めるんだ。」
そう言って割って入って来たのはクレマン様だ。
「マルゴワール小侯爵様、大変失礼致しました。私はマイヤー伯爵家当主のクレマンと申します。マデリンは私の婚約者です。」
クレマン様はそう言って頭を下げている。何故、頭など下げるのだろう。自己紹介しただけなのに。マティス様は鼻で笑うと、言う。
「伯爵家の婚約者ともあろう方が、別の未婚の男性に声を掛けて来るとは…、伯爵様も大変ですね。これ以上、無礼を働く事の無いように、しっかりと教育された方がよろしいですよ。」
無礼? 何が無礼なのだろう? マティス様はそう言って私を見る。そしてクスっと笑って言う。
「婚約者殿は何が無礼に当たるのか分かっていないようですね。」
そして頭を下げているクレマン様の後ろに立っている私に顔を近付け、言う。
「何がそんなに自信を持たせているのか分かり兼ねますが、これだけはお伝え致しましょう。あなたはご自身が思う程では無いですよ。」
マティス様はそう言って私から離れ、歩き出しながら近くに居た侍従に言う。
「ジャスミン嬢に急いで謝罪の品を用意しろ。花と…そうだな…」
私はその光景を見てわなわなと震える。
あなたはご自身が思う程では無いですよ
これが何を意味しているのか、それぐらいは分かる。私があの女に劣ると言うの?!
「マデリン、勝手な事はしないでくれ。」
クレマン様にそう言われて私は言う。
「何故です? 自己紹介しただけです。」
クレマン様は大きな溜息をついて言う。
「君は貴族のマナーというものを学んでいないから、多少は仕方ないと思っていたが。仮にも君は伯爵である俺と婚約したんだ。その婚約者の俺を差し置いて、子女である君が自ら俺よりも高位の貴族であるマルゴワール小侯爵様に話し掛けるのはマナー違反なんだよ。」
そう言われて私はクレマン様に言う。
「じゃあどうすれば良かったのですか?」
クレマン様は私に言う。
「君は何もせずに居れば良かったんだ。」
そして呟くように言う。
「この俺でさえ、マルゴワール小侯爵様とは話した事も無いというのに。これじゃあ初対面の印象が最悪じゃないか。」
そして私を見てまた溜息をついて言う。
「今日はもう帰るぞ。」
スタスタと歩き出したクレマン様の後を追う。貴族のマナー? そんなもの教えて貰った事など無いし、今までは高位の方だとしてもクレマン様以上の高位の方とは話した事が無かった。自ら話し掛ける事すら許されないのだとしたら、どうやって出会えば良いと言うのよ!
それに。
どうしてみんなあのジャスミンとかいう女に構うの! マティス様まであの女に謝罪の品まで用意しようとしているなんて! 一体、何があったというの? お茶を掛けられて着替えるだけなら、あんなふうに謝ったりはしない筈。妹のライザ様が無礼を働いたとそう仰っていたような気がするけれど。
◇◇◇
「夜会の招待状?」
私にその招待状を渡しながら、侯爵様が頷く。
「えぇ、春の園遊会の招待状です。毎年この時期になると開催されます。」
そう言えばマイヤー邸に居た時も春の園遊会の招待状が私には来ていたのだった。1級魔法師として呼ばれていたのを思い出す。
「行かれた事は無いのですか?」
そう聞かれて私は苦笑いする。
「えぇ、行った事は無いですね。夜会など興味も無かったですし…それに…」
マイヤー家にはそんな余裕は無かった。着るものですら新しく誂える事も出来なかったのだから。侯爵様は少し笑って言う。
「それでしたら一度、経験を積んでみる為にも行った方が良いかもしれませんが。」
そこで言葉を切った侯爵様が私を見る。
「会場は王宮です。」
その言葉が何を意味するのか、分かっていた。
近く、王宮に呼ばれる事になるかもしれない
そう言われていたのを思い出す。私の両親の死に王室が関わっているかもしれない。それを考えるとのこのこ王宮に行く訳にもいかないけれど。
「まだ王室が関わった証拠はありませんが、国王陛下が何を考えているのかは掴めていません。それに今まで夜会などに参席して来なかったジャスミン嬢が参席されるとあれば、他の貴族たちもジャスミン嬢の存在に注目する筈です。そんな注目を集めるあなたに何かを仕掛けて来る可能性は低いと思います。」
侯爵様が少し笑う。
「敵情視察、というのも良いでしょう。」
確かに侯爵様の言う通りだ。こちらがずっと何も動かずに居ても、入って来る情報などは知れている。
「ジャスミン嬢の周辺警護はこの私が居るので問題無いでしょう。ジャスミン嬢もご自身で自分の身を守れますしね。」
そう言われて笑う。マルゴワール家のお茶会での事を言っているのだろう。あれは私にとっても良い経験だった。人に対して保護魔法を使った事は無かったから、実際に使うとどうなるのか、実証実験が出来たのは有り難い。保護魔法で動きを止めた人たちはその後、1,2時間程は体を動かす事もままならなくなるようだった。相手を拘束するのに役に立ちそうだ。ふと、私の部屋に飾られている色とりどりの花を見る。この花たちはマルゴワール侯爵家嫡男のマティス様から頂いたものだ。
マルゴワール家のお茶会からは数日経っていた。その日のうちにマティス様からは謝罪の品という名目で花と王都で有名な菓子店の品物が贈られて来ていた。花に至っては連日に及んでいる。
「そろそろ贈らなくとも良いとお伝えに?」
そう侯爵様に聞かれ私は笑う。
「もう既にお伝えしましたが、花はずっと贈られて来ていますね。」
侯爵様が花を見ながら言う。
「贈り返しても良いのですよ。」
私はそんな侯爵様に聞く。
「贈り返しても良いのですか?」
侯爵様が私を見る。
「えぇ、贈り返せば、もう要らないという意思表示にもなりますからね。」
なるほど、贈り返すなんて失礼に当たるのでは無いかと思っていて、どうしたら良いのか分からなかった。
「では次に来るものは贈り返して頂いても?」
そう聞くと侯爵様が微笑む。
「分かりました、バーンスタイン侯爵家の判断として、返送しましょう。」