六月下旬、この世界にも梅雨があるらしく、雨の多い日が続いていた。
湿気がまとわりつく室内から、ノエルは窓の外を眺めていた。
あれから二週間近く経つが、相変わらずユリウスの研究室には通っていない。
学院内では、あまりユリウスの姿を見かけないようになった。
(会いそうな場所に行かないようにしているだけだけど)
このままマリアとユリウスの親密度が上がってくれれば、アイザックルートのシナリオは順調に進む。仮にアイザックとの恋が成就しなくても、友情エンドに入れる。そうすれば、世界の崩壊は免れる。
(それに、今ならまだ、アイザックにルート固定する必要もない)
物語は序盤だ。他の攻略キャラに変更もできる。
マリアは他の面々とも親密度を順調に上げている。誰のルートに入ってもおかしくない。
(もし、ユリウスルートに移行したなら、私は邪魔しちゃいけない)
マリアが誰のルートを選んでもいいように、他のメンバーとも必要最低限の関わりに留めていた。
「ノエル、取り寄せてもらった資料、受け取ってきたよ」
ロキの声に振り返る。
「ありがとう。本当に出してもらえるとは、思わなかった」
「この図書室の司書は、元はカーライル家の使用人なんだ。顔見知りだから、融通してくれたんだよ」
(なるほど、カーライル家の草ってことか。さすが王室直下の
「他に、探したい本はある? なければ、クラブ室に戻ろう」
「そうだなぁ。自然属性魔法の応用実践書が読みたい」
「それ、ノエルが個人的に読みたいんでしょ」
「うん。でも、ロキにとっても役に立つ本だよ。自然属性全適応者のロキにしかできない魔法があってね。是非試してほしいんだけど」
ロキがノエルの手を握って歩き出す。
「後でね。ノエルって本当に勉強熱心だなぁ。授業が終わってまで、勉強のこと考えなくていいのに」
「魔法、楽しいのに」
至極残念な声で、ぼそりと呟く。
乙女ゲということで、シナリオ執筆時にはこの世界の魔法について、詳細描写まで盛り込めなかった。
だが、この世界には自分が作った魔法設定がしっかり根付いている。
(つまり、私が使いたかった魔法が使い放題ってことなんだよね!)
そういう意味では、ノエルが全属性適応者だったことに、心底感謝したい。
「でも、ノエルが俺と同じ自然属性適応者で良かったよ。わからない課題とか、教えてもらえるの、助かる」
「闇特化だけどね。自然属性も伸ばしたいから、この世界の知識を余さず覚えたい」
ぐっと拳を握る。
ロキがドン引いた顔で振り返った。
「その熱心さは、どこから来るの? 光魔法に属性がなくて良かったね。ノエルなら、禁忌術にも手を出しそう」
「出さないよ」
ロキの呆れ顔に、力なく返事した。
ノエルは学院の登録上、『光以外の全属性適応者』ということになっている。全属性適応者である事実が明るみに出れば、更に有名人になってしまうからだ。そのあたりの守備は総て、ユリウス任せだが。
(『呪い』の生還者に加えて全属性適応者だなんて、とてもモブの設定じゃない)
「今日はウィリアムとレイリーが別の用事で来られないんだって。多分、マリアとアイザックも来ないだろうし、資料は二人で調べようか」
「ウィリアム様とレイリーは、何処へ?」
「生徒会室だよ。副会長と書記を打診されているらしいよ。断るのが大変なんだってさ」
「ああ、なるほど」
ウィリアムとレイリーは、ゲームシナリオ通りなら生徒会に入る。クラブを立ち上げたばかりに、その設定が消えてしまっているのだろう。
(まぁ、それくらいの設定がなくなるのは、問題ない、よな?)
生徒会メンバーに重要人物はいなかったはずだ。シナリオ的には問題ないだろう。
「ねぇ、それよりさ、今日のおやつ、チョコとエクレアにしたけど、いい?」
「本当に! 嬉しい! ロキ、ありがとう」
ノエルはロキを見上げた。
ロキが微笑み返す。
「やっと笑った。ノエルはチョコレート好きだよね」
ロキに頬を撫でられる。
くすぐったくて、目を眇めた。
「私、辛気臭い顔、してた?」
「梅雨のジメジメみたいな顔してた。チョコくらいでノエルが元気になるなら、いくらでも持ってくるよ。あ、でも次はプリンにする?」
「ロキはどうして、私が好きなお菓子を知っているの?」
「見てれば、わかるよ。ノエルって結構、顔に全部出てるから」
どきっとして、頬に手をあてる。
自分の表情を気にしたことは、あまりなかった。
「他には、意外とお肉が好きだよねぇ。ランチはよくパスタを選んでいるとか?」
「食べ物ばっかり……。本当によく見てるね」
ユリウスとマリアを避けている分、ロキと共に過ごす時間が増えたのは確かだ。
ノエルが一人にならないように気遣ってくれているのだろう。
「食べ物だけじゃないよ。最近のノエルが元気ない理由も、何となく知っているけど」
ロキがノエルの腰に手を回して、体を引き寄せた。
「でも、それについては協力してあげない。俺はノエルと一緒にいられる今が、楽しいから」
「私も楽しいよ。だから別に、元気ない訳じゃないよ」
ノエルを見下ろすロキの顔が、降りてくる。額に額が、こつんとぶつかる。
ロキが悩まし気に息を吐いた。
「こんな分厚い資料、持っていなかったらなぁ」
恨めしそうに資料に目を落とすロキに、手を差し出す。
「なら、私が持とうか?」
ぱちくり、と目を瞬かせて、ロキが笑った。
「ノエルが持ったら、意味ないでしょ」
頭に疑問符が浮かぶ。
不思議そうにするノエルの腰を、ロキが強く抱いた。
「俺もっと、ノエルのこと、知りたい」
(私は、ロキってキャラを知っている。でも知っているのは、あくまで自分が作ったプロフィールだ。目の前にいるロキ自身じゃない)
この世界で、生身の人間として生きるロキを、他のキャラたちを、自分は知らない。
自分が作った性格設定のキャラたちが、どんなことを考えて生きているのか、興味がある。
「私も、ロキのこと、もっと知りたいと思うよ」
見下ろすエメラルドグリーンの瞳を見詰める。
ロキの唇がノエルの額にキスを落とした。
びくっと肩が震える。
「今のは、挨拶ね。俺のこと、もっとたくさんノエルに知ってもらいたいから。だから俺にもノエルのこと、もっと教えてよ」
ロキが機嫌よく、ノエルの手を引いて、歩き出した。
(びっくりした。挨拶か。貴族階級の挨拶はキスとか普通にするからな)
ユリウスに毎日口移しされていたせいで、感覚がおかしくなっている。
あれから触れられていない唇を指でなぞる。
寒々しい思いが込み上げてくるのを無視して、ノエルはロキの手を握り返した。