目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

3

「ミナだね。覚えとく。私のことも、カナデで良いから」

「はあ、カナデ……?」

「うん。で、ミナはこんな時間までここに居ていいの? もう二時間目始まるけど」

「えっ」


 唐突に投げかけられた言葉に驚き、スマートフォンで時間を確認すると、二時間目の始まる五分前であった。この場所から走って学校まで戻ったとしても、五分ではとても着かないだろう。


「もういいよ、どうせ間に合わないし……」

「そ。じゃあ一緒にサボっちゃおうか」


 カナデはショートカットを揺らして笑い、地面にしゃがみ込んだ。灰色のスカートからは健康的な脚が伸びていて、反射的に目を逸らす。こうやって見ると、カナデは普通の女子高生だ。さっきまであんなに壮大な演奏をしていたとは思えない。けれどまだ、彼女を包む空気はキラキラしていた。まるで太陽のように、カナデは眩しい。


「いいよね、この場所。人も少ないし、静かだし。気に入ってるんだ」


 水平線を見つめながら、彼女は言った。湿気を帯びた風が、わたしたちを包む。


「……カナデは、吹奏楽部に入っているの?」

「いや、入ってない。これは個人的な、趣味みたいなものだから」


 どうして? とは言えなかった。彼女の述べた口調が、先程よりも少しばかり強くなっていたような気がしたから。わたしが口を噤んだのを気にしてか、カナデは困ったように頬を掻いた。


「……ていうか、うちの高校の吹部ってすごい厳しいじゃん。制服も着崩したらいけないし、小テストも毎回合格しないと怒られるし、もちろんサボりとか厳禁だし。そんなルールに縛られて音楽するのが、イヤなんだよね。あと、人間関係も面倒臭い。そういうの関係なく、ただ自由に演奏してたいだけなんだ。楽器吹くだけだったら、どこでも出来るしね」


 カナデの言うことは一理あった。わたしたちの通う高校の吹奏楽部は、県内でもそこそこのレベルで人気もあるが、規則と規律にあまりにも厳しいと有名だった。女子のスカート丈は膝下五センチ固定だし、髪の毛は肩についたら結ぶという中学生のようなルールが存在しているらしい。毎週ある英単語と漢字のテストに落ちると放課後の追試になるのだが、顧問や先輩からべらぼうに怒られるという噂もある。


 確かにそんな中で、カナデはやっていける気がしない。集団の中で大切なのは協調性だ。自由でいたいというカナデの願いは、吹奏楽部の中では叶わないだろう。


 自由と引き換えに一人を選んだカナデは、だからこそ、あんなにものびのびとした演奏が出来るのかもしれない。


「ミナは何か部活やってないの?」

「わたしは帰宅部。特にやりたいこともないし……何も出来ないし。カナデが言うように、人間関係とかも大変そうだったから」


 彼女の隣に、同じようにしてしゃがみ込む。スカートを気にしながら膝を抱え、眼前の東京湾を見つめてみる。汚いと思ってたけど、水面は太陽の光を疎らに反射させてスパンコールのように輝いていた。どこまでも遠くに広がる、青。髪の毛が潮で絡まっているような気がして、わたしは手櫛で髪を梳かす。案の定、掌はべたついた髪の毛の途中で止まってしまった。


 わたしって、つまんないな。


 はあ、と小さく溜息を吐き出すと、隣のカナデが立ち上がった。楽器を片手に、もう片方の手を差し出している。わたしも立てということだろうか。陽光を浴びるカナデの手に、恐る恐る手を伸ばす。カナデの手は力強く、しゃがんでいたわたしを引っ張り上げた。


「ミナもやってみなよ」

「え?」


 思わず口をついて出た声は、波の音にかき消された。カナデはわたしを真っ直ぐに見据えたまま、繋いだ手を離し、両手で金色の楽器を差し出してきた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?