「だからさ、ミナも、やってみなよ。今は出来なくても、続けたら絶対出来るから」
そう言って、カナデはわたしの手に添えた自分の手にぐっと力を込める。
「もしよかったら、私が教えてあげるからさ」
期待の眼差しを向けられて、わたしは先程のことを思い出す。力を抜いて、振動を意識して、音のイメージを……。
管の中に息を吐き出し、空気が震えた。
「出来た」
「すごいじゃん! やっぱりミナ、センスあるよ。じゃあ次は、それを楽器の本体に付けてみて。持ち方はこんな感じで……」
「ええ……もう本当に無理……」
カナデはわたしの両手を勝手に定位置にセットさせ、そのまま楽器を吹いてみるよう指示をした。吹き方はさっきと同じだからさ、と言いながら手を離す。
楽器を眼前に持っていき、戸惑いながらマウスピースに口を付ける。息を入れると、何も音は鳴らなかった。
「やっぱりダメだって、無理」
「さっき出来たから、大丈夫。吹けるよ」
「そうかなあ……」
祈るように、もう一度マウスピースに口を付ける。もし、もしもわたしが、この楽器を鳴らせたら。わたしの世界は変わるのだろうか。わたしは、カナデみたいに輝くことが出来るんだろうか。……わたしの灰色の世界から、抜け出すことが出来るんだろうか。
息を入れても、音は鳴らない。やっぱり鳴らない。そう簡単に鳴らせるわけがないんだ。わたしなんかに出来るわけない。わたしとカナデは、そもそも住む世界が違うんだ。わたしもあんなに輝きたいだなんて、なんておこがましいの。
少しでも期待していた自分を呪ったとき、肩に手が添えられた。
「力抜いて。ミナなら出来るよ」
あまりにも優しいその声に、心が蕩ける。本当に? わたしでも出来るのかな? カナデがわたしに期待している。その期待に応えられなくて、いいの? もう一回、だってわたしも本当は、こんな世界を抜け出したい。だから、どうか。
音が鳴った。
くすんだ東京湾に、不恰好な音が勢い良く響いた。身体は電流が通ったようにびりびりと震え、視界が明るく揺れる。わたし、鳴らせたの?
「出来た! やっぱり出来るじゃん!」
隣を見ると、カナデが嬉しそうに笑っていた。出来た、わたしにも、音が鳴らせた……。
「だから言ったでしょ、ミナなら出来るって。ミナさえ良ければさ、一緒に楽器やってみない? 吹き方とかは私が教えるからさ。ミナが一緒にやってくれたら、私も嬉しいよ」
「えっ……ええ……?」
手に持ったままのトランペットを見つめた。金色の楽器に、わたしの冴えない顔が映り込んでいる。やってみたら、わたしもカナデみたいになれるのかな。ここで変われなきゃ、わたしは一生このままなのだろうか?
「大丈夫、ミナなら出来るよ」
どこまでも真っ直ぐな眼差しに押され、小さく頷く。わたし、期待してもいいのかな。
カナデは相変わらずキラキラとしていて、やったと言いながらはしゃいでいた。手に持った金色の楽器の重みが、先程までより幾分軽くなったような気がするのは気のせいだろうか。潮風に吹かれながら、わたしは初めての音を胸の奥で反芻した。
カナデがトランペットを手に持つわたしを見つめた。その視線は、まるでわたしを灰色の世界から引き上げる光のようだった。
きっと、この音がわたしをどこかへ連れて行ってくれる。そんな気がした。カナデの笑顔と潮風の中で、わたしの新しい音が響き始めた。