「……本当に、わたしでいいの?」
「うん。ミナに、持ってて欲しいんだ」
その言葉に、胸の迷いがふっと軽くなった。ケースに付属したマウスピースを抜き取り、楽器に付けてみる。昨日と同じように吹いてみると、瀕死の動物みたいな音がかすかに響いた。
「昨日吹いた私のよりは、初心者用で吹きやすいはず。すぐ慣れるよ。じゃ、音出しから始めようか」
カナデが隣にぴったり寄り添い、丁寧に教えてくれる。一時間後、掠れた音がようやく一つ、まともな音に変わった。「それ、ドの音だよ」とカナデが笑う。
一時間吹いただけなのに、唇の周りは疲弊していて、鈍い痛みが頬にまとわりついていた。わたしがバテたのを見透かしてか、カナデはここまでにしようかと言って笑った。
「次は別の音を出せるよう練習してみよう。ミナってさ、音符読める人?」
カナデの質問に、少しばかり戸惑う。小学校の頃、親に無理やり行かされていたピアノ教室を思い出した。結局すぐに辞めてしまったけれど、基本的なものはまだ覚えていると信じたい。
「たぶん……?」
「トランペットの楽譜はト音記号しか使わないから、そこさえ読めれば大体大丈夫だよ。これは運指表ね」
カナデが渡してくれたA4の紙には、各音の下に①から③までの文字が記載されていた。音によってその丸が黒く塗りつぶされていたり、白いままだったり。何だこれは? と思いながらカナデを窺う。
「数字はピストンの番号だよ。口に近い方から、1番ピストン。白数字はピストンを押さないで、黒数字はピストンを押す。だから、例えばレの音は1番と3番が黒いから、その二つを押せば鳴るよ」
「なるほど……」
ピストン3つの組み合わせで音が変わるのなら、リコーダー等と比べて覚えることが少なそうだ。そのくらいなら、わたしでも覚えられるかも。
唸りながら運指表を見つめていると、突然横からマイクが差し出された。驚いてカナデを見ると、白い歯を覗かせて笑っている。
「じゃ、時間もまだ余ってるしちょっと歌っていく?ミナから選んでいいよ」
「えっ」
咄嗟にマイクを受け取ってしまい狼狽えていると、カナデがソファーから立ち上がった。充電されていたタブレットの一台をわたしに寄越し、もう一台でテレビを操作する。死んでいたテレビの音が活気を取り戻し、スピーカーから楽しげな音楽が流れ出した。
「そんな、わたしカラオケとかあんまり来なくて……来たとしても、いつもドリンクバー係だし、歌える曲全然なくて……」
カナデから受け取ったマイクをテーブルに戻し、わたしはスカートから覗いた自分の太腿を見つめていた。電灯の灯りを受けて、なんだか不健康そうな色をしている。
「ええ? それじゃ、つまらなくない?」
つまらない、か。テーブルに置いたタブレットに映し出されている丸文字が、わたしの心を辟易とさせる。今までも、カラオケに来て歌うよう言われたことは何度かあった。それでも、わたしは歌わなかった。
「……好きな音楽とかそんなにないし、何を歌っていいのか分からない。みんなが知らない曲を歌って、退屈させるのも嫌だし」
ぼそぼそと呟いた本音を、カナデは見逃さなかった。カナデは少し困ったような笑顔を浮かべ、わたしを優しく見つめていた。
「ミナはさ、周りのこと気にし過ぎじゃない? みんなが知らない曲を歌ったとしても、カラオケなんだから別に良いじゃん。少なくとも私はそんなこと気にしないからさ、今は好きなようにしていいんだよ」
カナデはソファーにもたれながら、慣れた手付きで機器を操作する。ピピッという電子音の後、天井に張り付いていたスピーカーから盛大な音楽が流れ出した。テレビには最近流行りの曲のタイトルが、ごてごてと装飾されたフォントで映し出されている。
「私、この曲結構好きなんだよね。ミナは知ってる?」
「えっ、まあ、一番くらいは……」
「よし、じゃあ一緒に歌おう」
カナデがマイク二本持って一本を差し出し、前奏が終わる前に押し付けてきた。ほらほらと促され、仕方なくその声に小さく合わせる。カナデと一緒なら、まあ良いか……。わたしが歌っているのを確認したカナデは嬉しそうに微笑み、声のボリュームを上げた。
そのままカナデはわたしが知っている流行りの曲を何曲か入れ、時間が来る頃にはすっかりわたしも歌うことに慣れてしまっていた。なるほど、世間の人がカラオケにハマる理由が、なんとなく分かった。身体の中に溜まっていたもやもやとした得体のしれない何かが、声に乗って多少発散されたような気がする。
「気持ちよかったでしょ?」
部屋を出るとき、薄暗い部屋の中でカナデはにやりと笑った。まんまと策略にハマってしまった自分が恥ずかしく、わたしは負け惜しみのような声を上げることしか出来なかった。