「ああ、奏ちゃんお疲れ様。ちゃんと練習できた?」
受付に戻ると、先程の年配の男性がカウンターの向こうから親しげに声を投げかけた。カナデは、まあねと軽く笑いながら伝票を渡す。
「今日は奏ちゃんが友達を連れてきてくれたから、サービスで半額にしとくよ」
「えっ、ほんとに。ありがとー店長」
「あ、ありがとうございます……」
店長、と言われた男性がレジスターを操作すると、規定の金額の半分の値段が表示された。店長権限でこんなことが出来るのかと感心していると、店長が口を開く。
「奏ちゃんが友達連れてくるのなんて久々だね、中学の時はよく来ていたじゃない。誰だっけ、あの……」
「……ああ、ほのかね」
カナデが目を伏せて呟く。さっきまでの明るさが消え、彼女の声はどこか乾いていた。
「そう、ほのかちゃん。今どうしてるの?」
「さあ、東高で吹部でもやってるんじゃないかな……私は私で淡々とやるよ。今はこの子の先生だけど」
唐突に肩を抱かれ、わたしは縮こまる。彼女の声に残る微かな棘が、耳に引っかかった。
店長はそれ以上何も言及せず、別れ際にまた来てねと言って大量のクーポンを渡してくれた。
自動ドアを抜け、街の雑踏の中に飛び込む。辺りはすっかり日が落ちて、連なる居酒屋の看板が暗闇の中に浮かんでいた。
カナデから渡されたトランペットケースが、静かに重力に引っ張られている。無意識的に駅の方面へと向かっていたわたしの脚が、ふと止まった。先頭を歩いていたカナデが突然止まったからだ。
「お腹減らない?ポテト食べに行こうよ。今日からLサイズ、半額なんだよね」
暗闇の中で振り向いたカナデの顔が、ネオンの光の中でぼんやりと揺らいでいる。どこか無理しているように見えるその顔は、わたしがまだ見たことのない顔だった。
「い……行く! 学校帰りにファーストフード店に寄り道するの、憧れだったんだ」
力こぶを作って力説してみると、カナデは何その憧れ、と言って噴き出した。良かった、カナデが笑ってくれたと思い安堵する。
繁華街の中を、わたしのローファーとカナデのスニーカーが並んで歩いていく。カナデの横顔を、思わずじっと見つめてしまう。すっと通った鼻筋、涼しげな目元、黒い短髪が夜風に揺れている。 ……カナデって、こんなに綺麗だったんだ。いや、そんなこと、昨日会った時からわかってたはずなのに。長いまつげに囲まれた瞳が、ゆらゆらと電飾の光の中に溶けている。見惚れていると、視線に気付いたカナデと視線が交差した。
「どうしたの?」
う、わー。心拍数が一気に跳ね上がり、身体が熱を帯びた。なんでもない、と言って頭を振る。カナデはクラスメイトたちとはどこか違う。自由で飄々としたその空気に、心が引っ張られる。もっと近付きたい——初めてそう思った。夜風に揺れるケースの重みが、手の中で温かく響いた。
黄色の看板が近付いてきて、カナデが浮足立った声を上げる。ポテトと一緒にバーガーも食べちゃおうかな、ミナは何が好き? そう問いかける表情に、もう影は残っていなかった。わたしは口角を上げて、その身体に一歩近づく。反動で、楽器ケースの金具が夜の街の中で楽しげに揺れた。