小さな背中を眺めながら、ふと思い出す。C組……カナデのクラスだ。カナデのことを思い出した瞬間、心臓が一度だけ大きく跳ね上がる。
C組の前までたどり着くと、若葉は他のクラスだというのに物怖じせず、どんどんと侵入していく。わたしと日菜子は、少し恐縮しながらその背中を追いかけた。
お目当ての生徒まで辿り着いたらしい若葉は、ばっと両手を広げてその背中に勢いよく抱きついた。小柄な女子生徒の身体はその反動で、バランスを崩し前のめりになる。
「柊氏〜! おはよう! 体操服貸して!」
「ちょっ、教室でその名前は呼ぶな! ていうか、抱きつくな! 体操服は貸すけど!」
柊、と呼ばれた女子生徒は勢いよく若葉の口を塞ぎ、慌てて周囲を確認する。周りで特段気に留めた生徒はいなかったようで、柊は息を吐き出した。
「柊、はペンネームだから! 部活以外禁止で!」
「えっ、でも柊氏本名何だっけ?」
「桜木冬子だ!」
体操服を片手に大声でやり取りをする二人を横目に、教室の様子を確認する。視界の隅に、窓際で机に突っ伏して寝ているカナデを見つけた。耳にイヤホンが刺さっていて、こちらには気づいていない。呼びかけたら迷惑かな――と思うと、心臓が少し速くなる。
若葉と柊はいつの間にか昨晩放映されたアニメの話できゃいきゃいと盛り上がっており、その横で日菜子が聖母のようにその様子を眺めていた。自分の立ち位置を見失ってしまったわたしは、居心地が悪く視線を教室中に彷徨わせる。その視線が、いつの間にか起きあがっていたカナデと交わった。
カナデはふ、と微笑み、机に立てた右手をひらひらとさせた。気付いてもらったことが嬉しくて、わたしも小さく手を振り返す。そんなことをしていると、突然背中に衝撃が走った。重みを感じたのがあまりにも唐突で、つい喉から変な音が出る。
「美奈氏、日菜子氏! ヤバい! そろそろチャイムが鳴るし撤退するぞ〜! 柊氏も体操服ありがとね! 後で返すから〜」
「だから、その名前はやめろって言ってるだろ!」
両腕でわたしと日菜子に覆いかぶさるよう抱きついていた若葉は、ぽいっと身体を離しそそくさとその場を去る。解放されたわたしと日菜子は咳き込みながら、顔を見合わせた。日菜子は困ったように笑い、その優しげな目を細めた。
「美奈ちゃん、わたしたちも行こうか」
「あ、うん」
C組を去る前にもう一度カナデの姿を見ると、一部始終を見ていたようで同情しているのか、何とも言えない表情で再度片手をひらひらさせた。わたしも困った顔をしてカナデに手を振る。
C組の敷地から出たところで、若葉が遅いぞ〜と言って仁王立ちをしていた。ごめんごめんと謝罪をすると、横で日菜子が唐突に口を開いた。彼女が首を傾げた拍子に、ふわふわな髪の毛が重力に靡く。
「美奈ちゃん、松波奏さんと友達なの?」
聞き覚えのある名前に身体が反応する。どうして日菜子が、カナデの名前を?
「あー、松波奏ね! そういえば、さっき珍しく教室にいたねー」
歩みを進めた若葉が振り向いて言う。若葉までカナデを知っているのか。まさか、カナデは有名人だったのか?
「頭めっちゃ良いって噂だよねー。入試もぶっちぎりの首席で、こないだのテストも一位だったんでしょ? サボり魔なのに成績良いから、先生も何も言えないんだってねー」
「あと、楽器がすっごく上手いって聞いたよ。吹奏楽部の部長が教室まで入部を直談判しに来たけど断ったとか……クールで格好いいよねえ」
若葉と日菜子の話を聞きながら、わたしは息を詰まらせた。知らなかった――こんなに有名な人の存在すら気づいてなかったなんて。カナデのこと、何も知らない。掌がじわりと汗ばむ。
「……で、そんなヤツと美奈氏は知らない間に友達になってたわけだ! おいおい、いつの間にそんな面白いことになってたの?」
若葉が興味津々といった感じでこちらに詰め寄る。日菜子もわたしをじっと見つめていて、少しテンションが上がっているように見えた。
「松波さん、すごいかっこいいよね……あのすらりとした姿も、顔も、ほんとにかっこいい……」
日菜子がうっとりとしながら視線を宙に向ける。頬が微かに染まっているような気がするのは、気のせいだろうか。
「そうかー? まあ、日菜子氏はイケメン系の女子に弱いからねー」
そんな日菜子を見て、若葉が呆れたように声を上げる。日菜子のイケメン女子好きも初耳だった。どこかで知る機会があったのかもしれないけれど、きっとその時もわたしは上の空だったのだろう。
「だってかっこいいんだもの! でも美奈ちゃん、わたしには本命がいるから大丈夫。松波さんのことは見る専だから!」
周りに華が咲きそうな、可愛らしい笑顔を浮かべて日菜子が言う。
「見る専? ……本命?」
口の中で繰り返してみる。見る専は憧れ枠、本命は恋愛対象ってこと? えっ、日菜子に好きな人がいるの? 日菜子の言葉を理解しようと頭をフル回転させていると、頭上で始業のチャイムが鳴った。
やべっ、と言いながら、若葉が廊下を駆け抜ける。日菜子は微笑んだまま、くるりと背中を向けて優雅に若葉を追っていく。わたしだけがその場に取り残され、少し遅れて二人の背中を追いかけた。