初夏はあっという間に過ぎ、ここ最近は猛暑が続く。海浜高校は海辺にあって、夏のじめっとした潮風と、東京湾から漂うちょっと生臭い香りで、不快指数が跳ね上がる。
だからこの一ヶ月、防波堤での練習はパスして、駅前のカラオケ店が定番になった。冷房がガンガン効いていてドリンクバーもあるし、カナデと仲良しの店長がサービスしてくれるから、お財布も助かる。
カナデの指導のおかげで、わたしのトランペットは一オクターブがなんとか吹けるまでに上達した。カナデがいつも自分のことみたいに喜んでくれるから、もう少し頑張ってみようかなと思っている。
何かを目指しているとか、そういうことは今のところないけれど。カナデが好きだというこの楽器を、少しずつ知っていけるのは楽しかった。あの日カナデに出会わなければ、わたしの高校生活は今よりもずっとつまらないものになっていただろう。
そんな感じで、今日も放課後はカラオケに集い、カナデによる数時間の個別レッスンを受講していた。カナデは相変わらずサボり癖が酷く、今日も制服ではなく半袖のシャツとジーンズというラフな格好で身を包んでいる。
冷房の効いた室内で、シャツから伸びた白い腕が楽譜の上を撫でる。わたしが響かせる、お世辞にも上手いとは言えない音を聴いて、優しく褒め、時には見本を見せてくれる。カナデの指導は非の打ち所がないほどに完璧だった。将来はトランペットの先生になった方が良いのではないだろうか。
入室時に汲んだドリンクバーの烏龍茶が底をつき、机の上の水たまりが少しずつ乾いてきた頃「じゃあ今日はここまでにしようか」とカナデが言った。次回までの宿題は、今吹くことができる音階を今日よりもスムーズに鳴らせることが出来るように練習しておくこと。今鳴らせる限界の音が楽に鳴るようになれば、もっと上の音も鳴らせるようになるらしい。確かに今までもそうだったから、そういうものなのだろう。
カナデに借りているトランペットを、四角いケースに丁寧に入れる。この楽器にも、少しずつ愛着が湧くようになっていた。カナデはカナデで、自分の楽器を黒いケースにしまっていく。カナデの楽器ケースは四角い形ではなくて、トランペットの形を形どったような不思議な形に変形している。ぱっと見で楽器が入っていると分かるから、かっこいいなといつも見惚れてしまう。わたしもいつか、真面目に楽器に取り組むようになれば買ってみてもいいのかもしれない。
いつも通り店長が破格の値段でレジを打ち込み、会計を済ませて店を出る。時間は六時を回っているというのに、日はまだ高く、昼間の猛暑の名残が気温として残っていた。暑いね、なんて無難なことを言い合いながら、並んで駅に向かって歩き出す。
駅の入り口付近は、疲れた顔のサラリーマンに混じって部活帰りと思われる学生がぞろぞろと連れ立って歩いていた。同じ高校の生徒もいるし、最寄駅が同じである東高の制服も目立っている。カナデとわたしが改札に向かって足を進めていると
「……奏?」
鈴みたいな声が響いて、カナデを呼んだ。前を歩いていたカナデがピタッと止まり、振り返る。目がわたしを越えて声の方に吸い寄せられて、つられて見ると、東高の紺の制服を着た女の子が驚いた顔で立っていた。片手には、わたしが持っている楽器ケースと全く同じケースが握られている。彼女も楽器をしているのだろうか。