「待ってよ、奏!」
ほのかが廊下に出た時、奏はまだあまり歩みを進めていなかった。放課後のひんやりとした廊下に、ほのかの声が響き渡る。奏はゆっくりと振り返り、呼び止めてきたほのかを眼中に入れる。その表情から感情は読み取れず、まるでいつも通りの奏の姿に感じられた。
「……さっきも言った通り、人望のあるほのかがソロを吹くべきだと思うよ。私は協調性ないし、部内でも嫌われてるみたいだからさ」
「そんな……そんなことない! 私は、私は奏に吹いて欲しい。皆に、奏の演奏を聴いて欲しいの」
奏が部内で上手くやれていないのは、薄々気が付いていた。楽器が誰よりも上手い癖に、出席率が悪い。そんな奏が気に入らなかったのか、「松波奏は調子に乗ってる」なんて言葉が、いつしか部員間で囁かれるようになっていた。
ほのかは、部長としてその言葉を諌めるべきだったのに、どこかで「皆、奏の圧倒的な演奏を聴けば奏の凄さを分かってくれる」なんて思っていた。
奏は一瞬だけ寂しそうな表情を見せたあと、くるりと踵を返し、片手をひらひらと振って歩きだした。長いスカートが、ほのかを拒絶するように勢いよく花開く。
「待って、奏……」
ほのかがその背中に片手を伸ばそうとした瞬間、背後から「ほのか部長ー」と呼ぶ後輩の声と軽快な足音が響いてくる。奏を追いかけるべきか、向かってくる後輩を待つべきか。ほのかの足は動かなかった。
これ以上、奏にかける言葉が今のほのかには見つからなかった。奏の背中はどんどん遠ざかり、呑気にほのかを呼ぶ後輩の声が近付いてくる。
「ほのか部長ー! 助けてください、うちのサックスパートの譜割りなんですけど……」
ほのかは唇を強く噛んだ後、声の主の方を笑顔で振り返る。どうしたの? という言葉は、きっといつも通り言えていただろう。ほのかは部長として、後輩の声に真摯に耳を傾けることを優先してしまった。
その日の夜、音楽室の鍵を職員室へ返却しに行った際、顧問から奏が退部届を出した旨を伝えられた。その瞬間、ほのかは鈍器で頭を殴られたように思考が停止した。やる気のない顧問は大して気にした様子も見せず、「まあ受験とか色々あるしね」と簡潔に話をまとめてしまった。
ほのかは思考がまとまらないまま一人帰路につき、家に着いた瞬間、携帯で奏に連絡をした。しかし電話が通じることもなく、送ったメッセージは最後まで既読になることはなかった。
翌日奏のクラスに行ってみても姿はなく、その翌日も、翌日も、奏が登校することは無かった。奏のクラスメイトに事情を聞いてみても、松波さんのことはよく分からないと冷たく言われるだけだった。
その後、ほのかは部長として皆の前では何事もなかったかのように部をまとめつつ、奏の復帰を待っていた。そうしているうちに、結局ほのかがソロを務めることとなったコンクールが終了し、奏が復帰することなく三年生は引退となった。
部活を引退してからも、ほのかは定期的に奏のクラスに足を運んでいたが、夏が終わって秋になっても、年が明けて受験シーズンが始まっても、卒業式までその姿を見ることは叶わなかった。
中学三年生に上がる頃、奏と一緒に東高の吹奏楽部の演奏を見たことがある。二人が通う中学の演奏とは打って変わって、レベルの高さと音の迫力に驚いた。奏とほのかは、一緒に東高を受けて吹奏楽部に入ろうと言い合っていた。二人とも勉強は苦手な方では無かったから、東高は十分狙えるレベルであった。
どうか奏がいますように。そう願いながらほのかは一人で東高の受験を迎え、晴れて入学することとなったが、新入生名簿に奏の名前は載っていなかった。
奏は、約束を守ってくれなかった。私が、奏を守れなかったから? あの時、私が部ではなくて奏個人を選んでいたら。
ほのかは自責の念に駆られつつも、高校で吹奏楽を続ける選択をした。奏と色違いのトランペットが、奏とほのかを今でも結ぶ、唯一のものだと信じていた。ほのか自身が音楽を続けていたら、もしかしたらまた奏に会えるかもしれない。
もし奏に会えたら、今更になってしまうと思うけれど、あの時のことを謝りたい。そして、誰に何と言われようと、ほのかがずっと憧れていた奏の演奏が好きだと伝えたい。そうほのかは思っていた。