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 雑談に興じてしまい、お会計をすることを忘れていて、慌てて財布からお金を取り出した。壁にかかった時計を見ると、もう結構な時間お兄さんと店長と話をしてしまっていたようだ。平日の午前中ということもあり、その間他の客が来ることはなく、すっかり盛り上がってしまっていた。


 お兄さんの友達割ということで、今日も値段を安くしてもらってしまった。毎回毎回申し訳ないなと思いつつも、ありがたく割引いてもらう。お兄さんからレシートを受け取った時、背後に他の客が並んだ気配を感じた。


「……あれ、もしかして美奈ちゃん?」


 柔らかな声が背中に投げかけられる。馴染みのある声だった。カウンターにいる二人は、背後の客を見て気さくに話しかける。


「おー、ほのかちゃん。お疲れ様」

「ほのかちゃん、久しぶりだねえ! 一年ぶりくらいかな」

「店長さん、ご無沙汰しています。久しぶりに練習しに来てしまいました。お兄さん、お会計お願いします」


 ほのかはわたしの横にすっと並び、カウンターに伝票を差し出した。絹糸のようなロングヘアを爽やかに靡かせ、東高の夏服に身を包んでいる。わたしとお揃いの楽器ケースを軽やかに持つほのかを見て、わたしのケースがひどく重たく感じられた。そうか、ほのかはカナデのお兄さんとも知り合いだったのか。長年の付き合いだろうし、まあ、当たり前といえば当たり前だ。


「……ほのか、さん」

「奇遇だね、美奈ちゃんもここに練習しに来てたんだ」


 ほのかは相変わらず、天使のような笑顔で微笑みかける。わたしのことなんて何も気にしてなさそうな、余裕のある微笑みだ。ほのかのような優しい人は、きっと嫉妬なんてしないだろう。わたしは後ろめたい気持ちを隠しつつ、愛想笑いを返した。


「そうだ、美奈ちゃん。この後時間ある? 部活が二時からなんだけど、良かったら一緒にお昼どう? 仲良くなりたいし、こないだのお礼も言いたいな」


 会計を終えたほのかが、暑さを吹き飛ばす笑顔で言う。裏表のないほのかの姿を見て、わたしはどんどん自分が惨めに思えてしまう。ほのかと一緒にいると、わたしの知らないカナデの姿が見えてきて、苦しくなる。それでも、わたしは知らないままでいる方がもっと嫌だろう。


「時間? 大丈夫だよ。わたしも、ほのかさんと仲良くなりたい」


 やったーとほのかは声を上げる。大人びた印象だが、時々見える子供らしい一面がギャップを帯びて可愛らしい。こんなに素敵な子、夢中にならない方がおかしいのではないだろうか。  


 身体が重力に引っ張られていくのを感じていた。店内は流行りの曲がBGMとして流れていたが、ボリュームが一段と大きくなったような気がした。この空間の中、わたしだけが、一人、重たい。


 何を食べに行こうか、とはしゃぐほのかに話を合わせつつ、受付の二人に挨拶をして自動ドアを開ける。喉の奥に絡まる何かを飲み込んで、私はほのかの隣を歩き出す。真夏の空が、やけに重くのしかかる気がした。


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