モンストラン公爵家の城に、ほのかに甘い香りが漂っていた。
「奥様ってば、またお菓子を作られたんですね!」
「あのパイ、とっても美味しかったなあ。あんな美味しいもの、ここで食べられるなんて思わなかった!」
「それに、あのパイを食べたら一日の疲れがスーッと取れて、お肌の調子も何だか良くなったわ!」
使用人たちの間で、最近密かに話題になっていることがあった。
それは、公爵夫人アップルが作るスイーツ。
モンストラン公爵家の食事は、もともと「パンとチーズと薄味スープ」が基本。節約志向というより、単に公爵ジョンが無関心すぎて「食事なんか適当でいい」というスタンスだからだった。だからこそ、アップルの作ったパイが、城内にとってはまるで天からの恵みのように思えたのだ。
「……なんで私、パティシエやってんだろう?」
アップルはキッチンの片隅で、ため息をつきながらリンゴの皮をむいていた。
「王妃の娘で、公爵夫人になったはずなんだけどなぁ……」
文句を言いつつも、手は止まらない。むしろ楽しそうにさえ見える。
「まあ……みんなが喜んでくれるなら、それはそれで悪くないけど」
アップルは剥いたリンゴを薄切りにして、きれいにボウルに並べながら、小さく微笑んだ。
「さて、今日はリンゴのタルトね」
薬草を練り込んだタルト生地を丁寧に伸ばし、型に敷き詰める。その上にスライスしたリンゴを美しく並べ、シナモンと砂糖を軽く振りかける。
「ふふふ……これなら文句なしね」
アップルはオーブンにタルトを入れ、静かに微笑んだ。やがて焼き上がると、彼女はメイドたちを呼びに、厨房を出て行った。
「ほう、これはこれは……」
アップルと入れ替わりに、料理長が厨房に入ってきて、焼き上がったタルトを見つめた。
「また奥様か」
料理長は、アップルのスイーツ作りをあまり快く思っていなかった。
「仮にも公爵夫人が厨房で菓子作りだなどと、品位に関わる……!」
そう言いながらも、彼の目はタルトに釘付けだった。
「いや……これは、毒味しなくてはな。品質管理の一環だ」
誰に言い訳しているのか、独り言を言いながら、料理長はそっとタルトに手を伸ばした。
「一切れだけ。一切れだけだ」
一口かじった瞬間、口の中で、リンゴの甘酸っぱさとシナモンの香りが広がった。タルト生地はサクサクで、絶妙なバターのコクが後を引く。
「な、なんじゃこりゃ……!」
料理長の目が見開かれた。
「うまい……!」
思わず声が漏れた。
「バカな。こんなうまいタルトが、あんな偽プリンセスの小娘に作れるはずがない!」
悪態をつきながらも、料理長の手は止まらなかった。
「いや、もう一口だ……いや、もうちょっと食べてみなくては分からん……」
気づけば、タルトは半分ほど消えていた。
「ヤバい……!」
料理長は周囲を見渡し、誰もいないことを確認した。
「いっそ、全部処分してしまおう。こういう時は、証拠を残さないほうがいいんだ」
料理長は、自分の腹の中にタルトを全て「処分」して、独り占めしてしまう決意を固めた。
ところが、最後の一切れに手を伸ばそうとした時――
「……ん? この匂いは……」
甘い香りに誘われて、キッチンに現れた人影があった。公爵ジョン・モンストランだった。
金髪碧眼、怠け者の公爵様。
いつものごとく、気だるそうな顔をしていたが、どこかソワソワしている。
「料理長、この匂いはなんだ……?」
「ひぃっ!?」
料理長は皿を隠そうとしたが、ジョンの視線はすでにタルトに釘付けだった。
「……それ、何だ?」
「え、ええっと、これは……」
「一つもらうぞ」
ジョンは料理長の説明を待たず、残ったタルトを一切れつまみ上げた。興味深そうにじっと見つめた後、ゆっくりと口に運ぶ。
「……!」
目の前の世界が変わった。
「んっ⁉ なんか……うまくね?」
ジョンは驚きのあまり、思わず少年のころのような快活な口調で、素直な感想を声に出した。
「え、ええっと……」
料理長は冷や汗をかきながら、ジョンの顔色をうかがう。
「おい、料理長」
「は、はい!」
ジョンは、腕を組みながら言った。
「このタルト、明日も作れ」
「え?」
「必ずだぞ」
ジョンは真剣な目で料理長に命じた。
「いや、しかし……」
「いいから明日の午後、部屋に持って来い」
ジョンはそう言い残し、満足げに立ち去った。
「全部、食べちゃった……」
料理長は空っぽの皿を見つめながら、絶望的な表情を浮かべた。こんな上質なタルトは、彼には作れない。
その直後。
「さあみんな、今日のおやつはリンゴのタルトよ!」
アップルがメイドたちを引き連れ、厨房に戻ってきた。
「あーっ!」
タルトがなくなっているのに気づいたアップルの目が、驚きとショックで見開かれた。
「私のリンゴタルト、食べちゃったんですか⁉」
「え、えっと……」
料理長は目をそらした。アップルの冷たい視線が突き刺さる。
「こ、これは……」
料理長は咳払いをすると、意を決して口を開いた。
「公爵様が、最後の一切れまで召し上がってしまわれたのです!」
よし、嘘は言ってない。
「ジョンが?」
アップルは驚いた。
「ええ、ええ。そうですとも!」
料理長は急に自信満々になり、まるで自分が悪くないと言わんばかりに胸を張った。
「公爵様が、どうしても味見したいとおっしゃいまして。そして、『明日もこれを作れ』とご命令を」
「そうなの?」
アップルの目がまん丸になった。
「そうですよ」
料理長は大げさにうなづいた。
「公爵様が、食べ物であんなに感動なさったのは、初めて拝見しました!」
「へえ……」
アップルはあっけに取られて、ポカンと口を開けた。
(ジョンが、私のタルトに感動?)
しかし次の瞬間、アップルは心の中で、ガッツポーズを決めていた。
(やったね!)
アップルは、内心に溢れる喜びでニヤつきたくなる表情を抑えながら、努めて上品さを保ち、軽くため息をついた。
「じゃあ、また作らなくてはいけないのですね……」
「はい。そういうわけで、明日もよろしく頼みますよ、奥様!」
料理長は、妙に上から目線で、アップルに告げた。
「ええ、分かりました」
アップルは微笑みながら答える。これでどうにか自分もこの家で、「悪役新妻」ポジションから、「料理長公認のパティシエ」には、昇格できたようだ。
それに、自分のスイーツで、ジョンが人生のむなしさから少しでも気を紛らわせられるのなら、決して悪い気分はしない。
(待ってなさいよ、ジョン)
甘い香りの向こうにアップルは、ほんの少しだけ、未来への希望を感じていた。