アップルが公爵家で鼻歌を歌いながらタルトを焼いていた頃、王宮では、彼女の義妹に当たる「白雪姫」ことスノーホワイト王女が、継母サニーによって幽閉される憂き目を見ていた。
スノーホワイトは五年前、乗っていた馬車が崖から転落して、実母である前王妃ともども命を落とした。悲嘆にくれる国王の前に現れたのが、魔女サニー・ブラックモアだった。
「死後八時間以内なら、死者を蘇らせる魔法を存じております」
サニーは国王に持ちかけた。
「ただし、蘇生魔法には膨大な魔力を消費いたします。王妃陛下か、スノーホワイト王女殿下か、どちらかお一人しか、生き返らせることはできません」
八時間というタイムリミットぎりぎりまで苦悩したあげく、国王はスノーホワイト王女を復活させてほしいと選んだ。サニーの魔法でスノーホワイトは見事に蘇った。
「お父様……」
「スノーホワイト……!」
父娘は、感動の抱擁を果たした。
しかし、国王の心の中には、娘を選んで妻を見殺しにした、という強烈な罪悪感も、一方で残り続けた。
その罪悪感に、サニーはつけ込んだ。
「陛下の暗いお気持ちを、晴らしましょう」
サニーはそう言って、快楽漬けの日々に国王を誘い込み、骨抜きにした。国王は、政務を全く顧みなくなった。
しかし王家には、聞けば何でも正しい答えを教えてくれるという秘宝「魔法の鏡」があった。鏡のお告げに従えば、政治には無知でも、国政を判断することはできる。
「鏡よ鏡、この国で一番
「それは、サニー・ブラックモア様です」
鏡のお告げに従い、サニーが王妃に選ばれて、鏡の助言を得ながら政務を取り仕切ることになった。しかしこれが、悪夢の始まりだった。
サニーは、国王を後宮へ引きこもらせ、浪費を重ねて贅沢三昧を尽くした。実娘のアップルを呼び出してモンストラン公爵家に嫁がせ、反乱の芽を摘む手を打った。そして王宮の奥深く、誰も足を踏み入れない塔の最上階に、スノーホワイトの新たな部屋を用意した。
床にはふかふかの絨毯、壁には白雪を思わせる純白のカーテン。そして部屋の中央には、真っ白なレースの天蓋付きベッドが置かれた豪華な部屋である。
しかし、その壮麗な内装とは裏腹に、そこはスノーホワイトにとって、まさに牢獄だった。
「ん……?」
スノーホワイトは目を覚ました。
「また、生き返ったのね」
彼女の体は、以前と変わらぬ美貌を保っている。透き通るような白い肌、バラの花びらのような赤い唇、そして闇夜のような黒い髪。
しかし、彼女の瞳には、どこかうつろな光が宿っていた。
「今度で、何回目?」
スノーホワイトは天井を見上げながら、淡々とつぶやいた。
「そうね。確か、前回は毒リンゴだったから、今回は……」
スノーホワイトは、そっと自分の髪に手を伸ばした。
「毒針の櫛、ね」
髪に触るたびに、まだ微かに痛む頭皮が、その証拠だった。
「あらあら、目が覚めたのね、スノーホワイト!」
突然、甘ったるい声が響いた。
「また来た……」
スノーホワイトは小さくため息をついた。
扉が開き、入ってきたのはスノーホワイトの継母、サニー王妃だった。
「ママはねぇ、あなたが目を覚ますのを心待ちにしていたのよぉー!」
サニーは、フリフリのレースで飾られたピンク色のドレスに身を包み、手には大きなバスケットを抱えていた。バスケットの中には、毒リンゴ、毒針の櫛、そして絞殺用のリボンなど、物騒なアイテムがぎっしりと詰め込まれていた。
「ねえ、スノーホワイト? 今日もママと一緒に遊びましょうね?」
「またですか?」
スノーホワイトは、うんざりした顔でサニーを見た。
「そうよぉ! 今日はねぇ、スノーホワイトちゃんのお着替えタイムなの!」
サニーはバスケットから、色とりどりのドレスを取り出した。
「ほら、このピンクのフリルドレスなんてどうかしら? あっ、でもやっぱり、こっちのブルーのリボンドレスも捨てがたいわねぇ!」
サニーは、まるで子供が人形遊びをするように、次々とドレスをスノーホワイトの前に広げていった。
「私はそんな服、着たくありません」
「だーめっ!」
サニーはピシャリと言い放った。
「スノーホワイトちゃんは、ママの可愛いお人形なんだから、ちゃんとオシャレしなきゃ!」
「お人形ねえ」
スノーホワイトは、自嘲気味に微笑んだ。
「どうせ、私に選択肢なんてないんでしょう?」
「もちろんよ!」
サニーは無邪気に微笑んだ。
「でも、ママが選んだドレス、きっと似合うわよぉ!」
サニーは勢いよく、フリフリのピンクドレスをスノーホワイトの前に突き出した。
「さ、これを着て!」
「……ため息しか出ないわ」
スノーホワイトは、観念したように立ち上がり、ドレスを手に取った。
「まあ、可愛い! まるでお姫様みたいよ!」
「私は元から王女ですが」
「そういう細かいことは気にしないの!」
サニーはキャッキャと笑いながら、スノーホワイトの髪を梳かし始めた。
「ねえねえ、今日はママが特別に、毒針の櫛でセットしてあげよっか!」
「毒……って、言っちゃってるじゃない」
スノーホワイトは半目になった。
「大丈夫よぉ。今日はまだ殺さないから」
「『まだ』……?」
「そう、今日はあなたを完璧な人形に仕立てる日なのよ!」
サニーは自信満々で、スノーホワイトに手鏡を差し出した。
「じゃーん!」
手鏡に映るのは、フリフリのピンクドレスに、リボンとお花で飾られた髪、そして表情のないスノーホワイト。
「……これ、本当に私?」
「そうよぉ! かわいいでしょ? ママの自慢の娘だもの!」
「これ、どこからどう見てもあなたの悪趣味よね?」
「そりゃそうよ! だってスノーホワイトちゃんは、ママの最高の傑作だもの!」
サニーは満面の笑みを浮かべながら、スノーホワイトの手を取った。
「さあ、今日は森の動物たちとティーパーティーよ!」
スノーホワイトは、仕方なくテーブルの前に座らされた。
「ええっと……こんにちは、ウサギさん。今日もいい天気ね」
スノーホワイトは、ぬいぐるみ相手に、棒読みのセリフをつぶやいた。
「まあ、スノーホワイトちゃん、素敵なお話!」
サニーは隣で拍手喝采。
「ほら、リスさんにも話しかけてあげて!」
「ええ、リスさんも元気そうで何より」
「うふふ、すばらしいわ!」
スノーホワイトは、虚ろな目で動物のぬいぐるみたちに囲まれながら、無限ループのティーパーティーに付き合わされていた。
「さあ、次はお歌の時間よ!」
サニーは急に立ち上がると、ピアノを弾き始めた。
「スノーホワイトちゃんも一緒に歌いましょう!」
「無理です」
「だーめ! ママのお願いを聞かないと……」
サニーの顔が、スッと冷たい笑顔に変わった。
「また、毒リンゴ食べさせちゃうわよ?」
「……」
スノーホワイトは、心底うんざりした顔で立ち上がった。
(もう何回目よ、これ……)
「ねえ、スノーホワイトちゃん?」
サニーは優しい声で囁いた。
「ママと一緒に、ずーっとこのままでいましょうね?」
「……え?」
「そうよぉ。誰にも邪魔されず、ママと二人きりで、いつまでも楽しく暮らしましょう!」
「永遠に?」
「ええ、永遠に!」
サニーは狂気じみた笑顔で、スノーホワイトの手を握りしめた。
「もう、うんざり」
スノーホワイトは小さくつぶやいた。
「ねえ、ママ?」
「なあに、スノーホワイトちゃん?」
スノーホワイトは、にっこり微笑みながら言った。
「お茶、冷めちゃったわね」
「えっ?」
「もう一杯、
「ああ、もちろんよ!」
サニーは上機嫌で立ち上がり、ティーポットを取りに行った。
その隙に――
「……今しかない」
スノーホワイトは、そっと立ち上がり、窓に向かった。
「お願い、開いて……!」
必死で窓を押し開けようとするが、そこには魔法の結界が張られていた。
「やっぱりね」
スノーホワイトは小さく息をついた。
「でも……」
「何してるの、スノーホワイトちゃん?」
「ひぃっ!」
振り返ると、サニーがニコニコ笑いながら立っていた。
「ママの目を盗んで、どこに行くつもり?」
「散歩に行きたくなっただけよ」
「ふふふ、ダメよぉ」
サニーはゆっくりと近づいてきた。
「だって、あなたはママの大切なお人形なんだから」
スノーホワイトは、逃げ場のない部屋で、再び絶望の淵に立たされていた。
「さあ、次は何して遊ぼうかしら?」
サニーは再びバスケットを手に取り、楽しそうに笑った。
「今度は、毒リボンで縛り上げる?」
「どうせ、また生き返るんだから、好きにすれば?」
スノーホワイトは、投げやりに答えながら、再び絶望のループへと戻っていった。
(いつか、必ず……)
スノーホワイトの瞳には、反抗の炎が静かに燃え上がっていた。
「……必ず、ここから逃げ出してみせる」
彼女の抵抗は、まだ終わらない――。